子どもたちのいる環境が、あまりにも閉ざされていないか、というハナシ。
どうもー、いおりんって言います。どーぞよろしく!。
私は今、25歳で生き方を見直しています。世界は私が思っている以上に広いし、日本で生まれた私は、戦地の方々よりもずっと自由。そのことに25歳で気付いた。
でも、私は人生の4分の1くらい費やしてようやくそれに気付いた。ずっと気付かない人もいるかもしれない。
過保護が行き過ぎてアホばっかですよ。
社会は学生に対して囲い込みすぎているんじゃないかな、と思う。修学旅行でも、すべて先生たちが決めたルートの上を歩かされ、話し相手も学校内と変わらない。それがすごく勿体ない。
もっと知らない道に行けばいいんだよ、と思う。そんで失敗とかしたらいいんだよ。死ななければ。
今は失敗したらクレームになったり、失敗しないように丁寧に注意書きがあらゆるところにあるじゃん。ペットボトルにも「凍らせないでください」とか書いている。そんなの書かなくていいの。凍らせて「あっ!ペットボトル割れた!」とかやったらいいじゃん。それがドラマになるんだよ。あとで話すと面白いことって、そういうとこなんだよね。
学校のクレームも今酷いでしょ。「学校から帰ってきたら服が汚れたので学校で洗ってください」とか「遊具でケガしたら危ないから撤去してくれ」とか「子どもに掃除させないで業者に頼んだらいいじゃない」とか。何言ってんだよ、ってハナシ。過保護が行き過ぎてアホばっかですよ。社会全体で過保護だよね。
社会からは「自由に生きろっつったろ、自己責任だろ」と言われる。身勝手な話だよね。
今、古民家再生とか流行っているけど、そういうのを子どもと一緒に出来たら楽しいよね。地元民と、他所から来た子どもと、全部一緒になってカフェとかやったら面白いし、子どもにも新たな道を示すことができる。ハッピーじゃん。
雪かきなんかも、男手が少ないところは業者に頼んでいるらしいけど、宿を開いて子どもを呼んで、「雪国の雪かき体験!」とかしたらいいんだよ。中学生〜高校生くらいだったらできそうじゃん。雪好きな子どもって多いよきっと。
そうやって、「知らない世界」を教えてあげることが素敵だと思うんだよ。「大人じゃないと失敗するから」って、失敗するのが良いんだよ。
今の時代、そういうことを教えてあげないじゃん。「進学校に行き、国公立の大学に行き、大手企業に行き、家族を持って老後まで頑張る」というレールを用意され、レールの上だけで生きていけと言われる。馬車馬教育だよね。
そして、学校を出た瞬間に、「自由に生きろ」とか言われる。自由が何かを知りもしないで。選択肢を満足にも与えられずに。そうやって、大人は、「限られた自由」の中に放り投げられる。社会からは「自由に生きろっつったろ、自己責任だろ」と言われる。身勝手な話だよね。
夢を持てよと人は言う
夢はなくとも生きている
夢はわざわざ捨てたのに
忘れた頃に言いやがる森山直太朗 “四月になれば”
昼飯を縁側で食べていたら、通りすがりのオジサンが話しかけてきて、そこで雑談して、「今週末にお祭りやろうや」とか言いだして。
私は、そういう限られた自由を広げるのが、「出会い」だと思う。私は、そういう出会いを子どもに与える宿屋をやってみたいよね。さっき言った、「雪かき体験」とか。「宿屋店員体験」とか。そういうのを開きたい。
今はとかく人と出会えない。都会では、カフェの隣の人にさえ話しかけてはいけないような空気になっている。「こんにちは」と挨拶すると、「えっ、私に言っているの?」という表情が帰ってくる。外人さんなんかは、素敵な笑顔とともに「コンニチハ」を返してくれるのに。
私はもっと、色んな人と関わりながら生きていきたいんですよ。昼飯を縁側で食べていたら、通りすがりのオジサンが話しかけてきて、そこで雑談して、「今週末にお祭りを新しく作ろうや」とか言いだして、人やお金や農作物を集めてお祭りを開いて、みんなで楽しむ、みたいな。そういうお仕事をしたいんだよね。
なぜって、面白そうじゃん。
ありふれた君と
ありふれた僕の
色あせた夢のかけらを集めて合わせてみた森山直太朗 “日々”
夢が昔より遠のいたように見えるのは、大人も子どもも、他人とのつながりが遠いのいたからじゃないかな、なーんて思う、いおりんなのでした。