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Stay Gold, Ponyboy.

思考と行動を積み重ねつづけること

僕は20代・・・たしか大学院で就活中に「成長」という単語に一定の忌避感情を持つようになった。

このブログでも書いたことがあるけれど、当時は日本社会全体で「成長」という言葉が使われまくっていた。会社は従業員に給料の代わりに「成長」をエサに採用活動をしていたしブロガーだったりインフルエンサーだったりといった人たちが軒並み「成長が大事だ」と言っていた時代があった。そしてそれがみんなを疲弊させていたように思う。

僕は就職活動中にいろんな会社が「ウチに来れば成長できる」とアピールしているのを聞いて辟易としていた。成長なんて生きていれば誰だってしているし大事なのは会社が提供する成長のその方向性がちゃんと自身の目指す方向性とあっているか。というのが大事だと僕は思っていた。

だから20代半ば以降から僕は成長志向の螺旋から降りた。生きてるだけで丸もうけとでも言うように。

ところが今僕は30代半ばになって自身がこれまでに積み重ねてきたモノに対する確かな実感を抱えている。それを言葉にするなら「成長」と言うのかもしれない。僕はサボり続けていたように思ってきたしだからこそ自分に対する物足りなさを感じ続けてきたけれど、どうやら気づかないうちに積み重ね続けてきたようだ。

それは多分、抗い続けてきた人生から来ているのかもしれない。ちょっと格好をつけすぎた言い方だけど、僕の価値観は世間一般の価値観と反することが多く、さらに僕は頑固で折り合いをつけることができなかった。だから僕は抗い続けるしかなかった。

最近は特に「人間を忘れない」ということを念頭に置いていて、「人間なんだから休まなきゃいけない」「人間なんだからつらいモノはつらいしできないモノはできない」といった部分を忘れないようにしている。これは一見安易なようで、人間であることをサボらないためには結構な労力がいる。「無理」って言わなきゃいけないし、納得させるために成果を出す必要もある。言われた通りにやっていれば成果がなくても責任転嫁できるけど、「無理」って言うからには成果を出さなきゃいけない。

こんな日々が実は「成長」とやらに一役買ったように思う。「会社や世間が提供する成長」に乗っかるのは、自分で争い続けるよりも安易な道だったのだろう、と今この場に立って思う。

もし「成長とは何か」を大枠に言うならそれは「思考と行動の量」だと僕は思う。

今でも毎年のように・・・あるいは季節が変わるごとに少し前の自分の未熟さを実感し、そこから積み重ねた思考と行動の量、そしてさらに完成度を増した自分に少しばかり誇りを持つ。そして季節が変われば「完成されたと思ったけどまだ全然だったじゃん、あの頃の俺」と前季節の未熟さを恥じる。そんな繰り返しが1年のうちに何度もある。

「もう良いよな、じゅうぶん頑張ってきたよな」と思う日もあるけれど、それでも自身の価値観との摩擦は未だに生じ続けているし、何よりも今日まで積み重ねてきた日々が習慣になっていて、思考と行動が止まらない状態になっている。

「20代についた差は一生では取り戻せないよね」と言う人は結構いて僕もそう思っている。そこでついた差は「量」からくるし、20代で積み重ねてきた人はもう止まらない呪いにかかっている。

余談だけれど、30代は「人脈」の時間かなあと思う。もう少し言えば「人を見分ける能力」かもしれない。仕事を進めるにおいてキーマンを的確に引っ張って繋がることができる能力を積み重ねておくと40代に差がついてくるのかなあと推測している。ここは今、実験と反省の繰り返し中。人間と向き合うのは苦手なんだけど仕事だからと積み重ねているところだ。

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