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Stay Gold, Ponyboy.

「醜さを愛せ」という言葉だけでは上手く作用しなくなった

おおよそ10年ほど前に「醜さを愛せ」という文章を書いた。

簡単に言えば「お前は綺麗な人間じゃない。それを受け止めて、そんな醜い人間が美しくあろうとする姿が素晴らしいんだ」ということを、当時流行っていたドラマ「リーガルハイ2」に登場した言葉を引用してそれを記した。

あの当時は、世の中が「成長」とか「自己実現」「正義」とかに傾倒していた。みんなが「優秀な人間であるべき」「ダメな自分を認めるな」「逃げるな」みたいな風潮があって、それに潰されてしまう人たちがとても多かった。それこそリーガルハイ2で描かれた社会も誇張はあれど「みんな正しい人間であるべきだ」という部分強く、そこへの風刺として作用していた。

だから、そこへのカウンターとして、「違う違う、みんなダメで愚かなの」「そんなダメな僕たちが、頑張って良いことしようとしてるのが、素敵なのさ」という主張をした。

リーガルハイ2に学ぶ「醜さを愛せ」のハナシ。 – イオリン手記

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一方で、今(2024年)の時勢は違う。そんな「成長」とか「自己実現」とかよりも、「ありのままでいい」「他人の生き方を否定するな」みたいな方が主流だ。

だから、「醜さを愛せ」という言葉は正しく作用しなくなったように思う。

この「醜さを愛せ」という言葉は、決して「醜いままでいい」という話じゃない。「醜さがあるから、そこから頑張れる」という話だ。

たとえば掃除ができない人がいるとして、その人は「掃除ができないなんてダメな人間だ」と自分を責めるのではなく「俺は息を吸うように掃除できるような人間じゃないんだ」と自分を認め、そんな自分が「今日はテーブル拭いてみようかな」と思ってテーブルを綺麗にする。そして「おお、掃除できない俺のくせにやるじゃん」と自分で褒める。それが素敵、というハナシ。

それが今は「掃除できない自分を否定するな」といってダラダラいつまでもテーブルを拭こうとしない・・・そんな生き方が尊重されるようになっている。

「醜さにあぐらをかくこと」は、唾棄すべき醜悪さだと俺は思っている。

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リーガルハイ2で出てきた「醜さを愛せ」という言葉には、前段がある。

君が【皆が幸せになる世界を築きたい】と本気で思うのなら方法は1つだ。醜さを愛せ。

10年前はまだ、「皆が幸せになるべきだ」という考えが一般的に普及していたから、「醜さを愛せ」という言葉だけで作用した。でも、今はそうじゃない。「そんなのは無理」という諦観からくる「自分(とその身内)だけが幸せならばいい」という考えが横行してしまっている。そんな中で「醜さを愛せ」だなんて言い出したら、それは地獄絵図だ。

「俺に道を譲れ」
「お前、なんて身勝手なんだ」
「おいおい、否定するなよ、俺の醜さを愛せよ」

こんな酷すぎるやりとりが今の世界を取り巻いている。そんな話をしたいんじゃあ、ない。

「(めんどくせーけどたまには道譲ってみるか)」
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「いえいえ、こちらこそ」
「(か、感謝されるなんて思わなかったぜ)」

これで全然いいんだよ、ってハナシだ。ここで「めんどくせー」と思っちゃうことを責める必要はないんだぜ、ってこと。むしろここの「めんどくせー」があるからこそ、それでもなお道を譲ったその姿、最高じゃん、というハナシだ。

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「醜さを愛せ」という言葉がそれだけで上手く作用しなくなったのは、現代日本社会が順調にディストピアに向かっているんだなということでもある。人間が自分たちで「ちょっと他者に良いことしてみよう」と思えなくなったということだから。「正しい人間が導く」というほうがむしろ正しくなりつつあるような気もしてしまう。まぁその「正しい人間」ってやつはどこにいるんだ、という問題にもなるけどね。

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