狩猟免許を目指している理由
今、私は狩猟免許を取るために活動している。活動と言っても、まずは自動車免許を取るところから始めている。
自動車免許をとって軽トラかワンボックスカーのようなモノを探す。狩猟免許は来年の春〜夏の間に取る予定だ(冬は狩猟シーズンで、試験はオフシーズンに行われる)。
その後は猟友会か何かにお邪魔しながら「有害鳥獣駆除隊員」を目指す。こうなれば、年中狩猟できるようになるわけだ。
今、描いている絵図ってのはこんな流れだ。もちろんやっていく上で—特に猟友会云々のあとはやりながら変わっていくだろう。
ここには「なぜ狩猟者を目指しているの?」というところを書き留めておく。
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社会に出てからの俺の方針は「ちゃんと生きている人たちに囲まれたい」だ。自分の生・信念・誇り・仕事をしっかり背負って生きている人たちの集まりで仕事したいと思っている。
ちょっと前までは、「ちゃんとしていない人がいなくなるまで、上に行ってやる」と思っていた。俺がまだ未熟だから、周りにも未熟な人が増えてくるのだ、と思っていたのだ。
ところが最近は、「上にあがったらむしろ、ちゃんとしていない人が増えてきているぞ?」と思っている。ちょっと前までは「少数精鋭集団」だったのが、組織が大きくなるにつれて鈍化してきていることを感じる。
それが悪いわけではなく、ある種の「成長組織の功罪」のようなモノなのだと思う。5人で戦うより、1000人で戦う方が気持ちが緩むのは理解できる。危機感がなくなるのだ。
特に表に出てこずに裏で管理職なんてやっていると、危機感なんて持ちようがない。どうせ失敗したって死ぬのは前線の兵士だし、法律で守られているからクビにもならない。「未熟だろうが忙しかろうが成果を出すぞ、じゃなきゃ死ぬんだ」とはならない。
繰り返すが、それが悪いわけじゃない。「危機感」なんて持ちたくない気持ちも理解できる。そもそも人間社会における進歩とは、「危機感をなくす」という側面があるわけで。
だが、「危機感」がないと人は本気じゃなくなる。動物園で日がな1日横たわっているラクダと同じだ。「言われたことだけやれば、最悪達成できなくても、ちゃんとエサくれるんでしょ」ってなる。
それも良い人生だが、俺はどうせ自分の力を使うなら、しっかり良い仕事を出したい。そしてそう思っている人たちと仕事したいわけだ。
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一方で、野生動物で「ちゃんとしていない生き物」なんていない。生きることに常に全力だ。飛び回るトンビもカラスもスズメも、犬もシカもキツネも、全員生きるために全力だ。
そして、その野生の中で生きる人たちも、また本気だ。当たり前だ、最悪死ぬんだから。野生動物に襲われるだけじゃない。遭難してもアウトだ。彼らはその世界で生きている。悠長にいられるわけがない。
世界が「ままならない」ということも勿論、彼らは知っている。そりゃそうだ。1日歩いて何も見つからないことなんてザラだろう。だからこそ、狩りが成功した時の感謝、世界に対する畏敬を持ち続けられる。
そっちのほうが、ずっとちゃんとしているわけだ。俺はそっちの世界を味わってみたい。
できればその中で死にたい。
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人間の「はじまり」を生きてみたい、というのもある。それはつまり、狩猟採集民としての生活だ。
勿論、今それをやるのは無謀だ。俺は火も起こせないし、狩猟も採集も知識がない。もし苦し紛れにウサギか何かを仕留められたとして・・・あるいは木の実を獲れたとして。それを食すことはできないだろう。虫も正直、食べる免疫はない
それを、狩猟活動を通して身につけたい。狩りをした獲物をさばき、保存食を作ったり、あるいはそこから装備(苦し紛れの靴とか)を作ったりする能力とかを身につけたい。そうすることで、やがて山で生きられるようになれれば、それは最強だなと思うわけだ。
もちろん、実際にやってみて、過酷すぎて心が折れるかもしれない。でもそれも学びだ。
私は幼い頃からずっと、野生の中で生きてみたいと思っていた。その糸口がようやく見つかった。