Archives

Stay Gold, Ponyboy.

死ねる場所に身を置きたい。

最近、私は死に場所を探している気がする。

別に死にたいというわけではなく、「死んでも良い場所に身を置きたい」という感覚だ。そして今の生活の延長線上では死にたくないな、とぼんやりと思っている。

====

昔から、現代社会を生きることに対する違和感は常に持ち続けていた。現代社会における活動を続けていても、心のどこかで「これは望んでいる道ではない」という部分がある。

私が生き甲斐というやつを感じる時は、どこか原始的な活動をしている時だ。友人と他愛のない会話をしている時、運動して汗をかいている時、アテもなく散歩しながら音楽のリズムに体を預けている時、あるいは、星を眺めながら物語を空想している時。

私はビデオゲームが好きだが、それも「原初的な体験の擬似体験・増幅体験」をさせてくれるからかもしれない。

一方で、私には現代社会で生きる技能はある程度あるようだ。だから、上手くやりくりして、私が望む生き方を近づけようとしてきた。ある種、そうすれば近づくだろうと思っていた。

でも、それは間違いのように思えてきた。この現代社会で技能を使うと、望む道からはどんどん離れていくように思う。周りから評価され、裁量が増えるにつれて、行きたかった道から遠ざかっている。

====

この現代社会は、「無駄なことを繰り返して、その結果、偶然生まれる一雫の有益なモノを待つ世界だ」と思う。

別に特定の会社、人、仕組みに限った話じゃなく、世の中は無駄なことで溢れている。そして、それがこの社会の主流だ。無駄を繰り返していて、その無駄なことを成立させるためにさらに無駄な論理がある。

少し前まで、私は「自分が信頼され、上に立つようになれば、きっと物事を解消できる力を手にするだろう」と思っていた。でも最近はそう思えなくなった。その力を手にするには、社長にでもなるしかない。

世界の主流は「無駄なことを積み重ねること」「無駄なことを無駄じゃないと言い張ること」だ。だから、一番上に立たない限りは、常に「無駄なことはやめませんか」と言い続ける日々になる。誰かが善意を持って作り上げたモノが無駄であると説得しなきゃいけない。

これは特定の人、特定の会社に限ったことじゃない。私が所属する会社に対する愚痴じゃない。現代社会とは、私にとってそういうモノだ、というハナシだ。

私はそれに疲れている。

====

私は最近、狩猟免許を取ろうと動いている。そちらの生活のほうが、よっぽど自分に合っている気がする。

そのためには車の免許も必要だから、自動車教習所にも通い始めた。こちらも無駄の宝庫だが、望む道のためには耐えようと思う。こちらの無駄は終わりが明確だ。(運転技術はともかく、座学については独学でやったほうが、誇張なしに100倍は早く学べそうだ。)

狩猟免許を取った後は、山で、川で、森で生きる能力を上げたい。火の起こし方、動物の捌き方。寝床の用意。そして、できれば山で狩りをしたり採集をしたりしながら過ごす期間を作りたい。

イノシシやクマに襲われる危険もあると思うけれど、そこで死ぬのはやぶさかじゃない。私にとっては燃やされたりツボに入れられたりするより、イノシシやクマ、オオカミに食われて土に還るほうがずっと良い。

そういう「死んでもやぶさかじゃないな」という場所に身を置き続けたい、と思う。現代社会にソレはない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)