世界は「感受」にあって、言葉はいつも後付けでしかない。
言葉はいつも遅れてやってくる・・・というハナシをします。
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最近、俺は「感受」というものを意識している。
仏教などの瞑想において「自身の感受を眺める」という段階があって。「感覚」に近いんだけれど、自身が感じたこと・・・それが言葉になる前の段階のモノ・・・それが感受だと俺は受け止めている。
例えば綺麗な夕暮れ空を見たときに「わぁ、キレイ」と思うとき、実際にその感動の起こりは、「わぁ、キレイ」よりも手前にある。「はわわ」「ほえーっ」という衝撃を感じて、それを脳が噛み砕いて「わぁ、キレイ」にしている。
その、脳が噛み砕く前の衝撃の段階。それが「感受」だ。
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俺は言葉が好きだけれど、言葉はいつも遅れてやってくる・・と思っている。後付けといってもいい。
生きている世界を体感するには、言葉よりも前の感受のほうに注目しないといけない。
夕暮れ空を見たり、風を浴びたり、川に飛び込んだり・・・それらを言葉にする前の「感受」。そこに世界はあり、言葉にした瞬間、世界は切り取られ、脳の中の「妄想」となる。
「人は国に住むのではなく、国語に住むのだ」という言葉がある。これは、人の思想等は言語に強く依存することを表しているけれど、それほどまでに言葉は、世界を切り取ってしまう。
夕暮れ空を「赤い」と表すことが多いけれど、実際に眺めてみると、そんな言葉では足りなすぎるほど、多くの色を含んでいる。でも、「赤い」という言葉で表すことで、多くの色を切り取ってしまっている。
言葉はレッテルでしかなく、世界ではない。
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今の時代は言葉が氾濫している。
多くの人間が言葉をSNSに投稿し、それらはコンテンツとして蓄積され続けている。俺自身、10年以上長文を書き連ねている。
だからこそ、言葉が世界であるという勘違いを引き起こしてしまう。言葉が残り続け、当たり前のようにそこにあるからだ。
昔語りになって申し訳ないけど、まだケータイのEメールもなかった頃は、言葉は世界ではなかったように思う。だから言葉狩りもあまりなかった。「クソ」とか「死ね」とか「しばくぞ」とかの攻撃力・殺傷力も今ほど強くなかった。それは残らないからだ。
今ではそれらは残り続けるがゆえに、世界だと錯覚されるようになった。ちょっとした発言で炎上し、あるいは悪口によって人が死んでしまう。言葉が氾濫し、言葉こそが世界だと錯覚されやすくなったがゆえだ。
でも、すべての言葉はただの妄言だ。「クソ」「死ね」「嫌い」は全部後付けだし、「好き」「愛してる」「大切」も全部後付けだ。
ほんとうの感受は手前にあり、言葉にした瞬間には、感受はすでに終わっている。
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いつになるかはわからないけれど、どこかで「世界を感受すること」に社会的意味が出てくることがあるんじゃないかなーーと思う。「言葉の時代」がどこかで崩壊するのかな、と。
ただ、デジタルが終わらない限り、言葉の時代も終わらない気もするから、隕石でも降り注ぐしかないかも。
俺は最近、山や空や木々がよく見える河川敷で、ひたすら感受に意識を傾けている時間がある。夕暮れ時、世界の移り変わりのダイナミズムを、言葉にせずただ感受する。
一つの「求道者」に近い生き方になりつつある気がする。ストリートファイター6でも「リュウ」に一番親近感湧いたしね。以前はほとんど魅力に感じなかったのに。
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ちなみに、言葉が感受を生み出すこともある。小説とかはまさしくそうで、言葉や物語が情景を生み出し、それらを身体が感受する・・・ということも大いにある。コレに関してはまた長くなりそうなので、どこか別のところで。