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Stay Gold, Ponyboy.

現代文明と自身との間に生じている致命的な亀裂

俺は、現代社会・文明と自身との間に常に、ギャップというか、致命的な亀裂のようなモノを感じている。

幼少期からずっとそうで、それは「わがまま」だとか「世間知らず」だとか、あるいは「中二病」といった言葉で揶揄され続けてきた。あるいは「大人になればわかる」みたいな言葉で諭されてきた。

今、30代も半ばを迎えているけれど、いまだにそのギャップは目の前にあって。強い摩擦を感じながら生きている。

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俺は、「こんなに文明が栄えている時代に生まれてきたくはなかったな」と常に思っている。

とはいえ、仕事でパソコンを使うしスマホも持っているし、あるいは趣味はゲームや音楽だ。現代文明の恩恵をがっつり受けている人間だと思う。そんな人間が時代を腐すのは滑稽にも見えるかもだけど。

俺が今、一番幸せを感じる時は、「心地良い風を浴びながら、誰もいない道を散歩している時」だ。鮮やかな空や草木、山々の偉大さ、畏怖を感じながら、無心となって世界と一体になる瞬間がある。その時が最高だ。その瞬間には全てがある。

もちろん現代文明の誇るエンターテイメントは素晴らしい。映画、ゲーム、本、漫画、音楽・・・これらは間違いなく素晴らしいし、大好きだ。

でも、自然が誇る神秘のほうが俺は好きだ。

「タワマンの最上階で一生ゲームしながら暮らせるチケット」と「狩猟採集民の一員となれるチケット」があれば俺は後者を選ぶと思う。

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もちろん、そこには「ある程度約束された安全」があるからかもしれない。食に困らず、野生動物に襲われる心配も(ほとんど)ない。怪我や病気をすれば病院に行けばいい。

でも、一方で現代社会には特有のリスク、危険性がある。「ストレス過多」「退屈感」「孤独感」など、精神的な危険性は現代社会のほうが圧倒的に高いし、「運動不足」「生活習慣病」などもある。「人間という動物」は、現代社会には適合していない・・・と俺は思う。

自然界は危険だからこそ日々を精一杯生きることができる。安定していないからこそ、生きることが自己肯定と直結している。繋がりが少ないからこそ、繋がりのありがたさを感じることができる。ベースに「足りない」というモノがあるからこそ、充足感が得られるわけで。

ありきたりな言葉だけれど、自然界のほうが充実した日々が送れるんじゃないかと思う。

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また、現代社会は解明され過ぎているとも思う。

幼少の頃、衛生写真が世界の全てを映し出し、未開の土地など地球上にはない・・・という事実にとてもがっかりしたのを覚えている。もちろん、海底や非接触部族の住む土地(北センチネル島とか)はあれど、神秘的な場所というのはほとんどなく
、世界が解明されていることは、俺にとってはがっかりでしかなかった。

大昔、まだ世界が「大きな亀の上」とか「巨大な神が支えている杯」とかだった頃のほうが、よっぽどワクワクするし、世界は輝いていたんじゃないかと思う。

今俺は日本アルプスが見える場所に住んでいるんだけれど、「このクソ巨大な山々を見たら、そりゃー神や仏、あるいは物怪の類がいると思うよな」と感じる。

それらがいた時代に生まれたかった。あるいは太陽や月が神であった時代。星々が生命であった時代。よっぽど魅力的で輝いた世界だったんじゃないかなと思う。

もちろん、そこには多くの理不尽に思えることもあったと思う。獣・虫などの外的や洪水・地震・火山などの天候。

でも、だからこその輝きがあったんじゃないかな。

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俺は人生に後悔はない。「あの時ああしていれば」とかはほとんど思わない。それは、「そんなこと言い出したら時代からして違う」と思うからだ。

でもそんなこと言ってもどうしようもない。タイムマシンはないんだし。だからなんとか頑張って今を生きている。常に摩擦と違和感を味わいながら。

あわよくば、ログハウスか何かにでも移り住んで、犬や猫と暮らしながら自然と共にのんびり暮らすのが夢のひとつだ。

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