他人のために動ける、ということ
「他人のために動ける」というのは、「他人に迷惑をかけない」とは違うよね、というハナシをします。
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お笑いコンビ、極楽とんぼさんがあるインタビューで、「突き抜けられる人とそうでない人を分けるポイントはどこか」というハナシをしていて。
加藤浩次さんは「自分のためじゃなく誰かのために動ける人」と答えていた。
山本圭壱さんは「公共のお手洗いで、最後に洗面台とかを綺麗に拭く人」と答えていた。
この2つ、一見違う話をしているようで、深いところでガッツリ結びついているように思う。
加藤浩次さんはおそらく普段からこーいうことを微分して捉えるようにしていて、山本圭壱さんは微分はしてないけれど観察はしっかりしているから現象ベースで答えている・・・そーいう差はあるけど、二者は同じことを言っているように思う。
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加藤浩次さんの「誰かのために動ける人」というのは、視野が広いからワガママにならず、誰かが喜ぶためにやらなくて良いプラスアルファをやり続けるから、とかそういう理由だったと思う。
これを言うと「そんなの当たり前だよ」と言うハナシのように聞こえる。小さい頃から当然の倫理観として教えられてくるし、漫画やアニメなどでも、主人公サイドは大抵この精神を持っているし、美談として語られる。
ただ、ここに山本さんの「公共のお手洗いで、最後に洗面台とかを綺麗に拭く人」という話が、とても示唆に富んだ説として刺さってくる。
「誰かのために動ける」ってことは「公共のお手洗いで、最後に洗面台とかを綺麗に拭く」ってことなんだけど、じゃあコレできてる人いるの、と。
そうなるとほとんどの人ができていないことに気づける。
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「洗面台を綺麗に拭く」が優秀なのは、「洗面台を綺麗に使う」ではない点だと思う。「綺麗に拭く」という能動的行為までやってますか、と。
似たような例に「ゴミのポイ捨て」があると思う。
大抵の人は「いやいや、俺はちゃんと周りのことを想ってるよ。だってゴミのポイ捨てとかしないもん」とまでは言える。
でも、「ゴミ拾いしてるもん」って言える人ってほとんどいないと思う。
本当「ゴミが捨てられている状況は周りに迷惑」と想っているなら、すでに落ちているゴミも拾うはず。
もちろん、渋谷や横浜の繁華街みたいにゴミが散乱していたら厳しいと思う。ちょっと拾ったところで意味がないからね。アレを解決するにはもう「みんなでゴミ拾い運動」にするしかない。それは大変。
でも、例えば家の帰り道、ふと空き缶やコーヒーの紙コップなどが落ちていた場合。それを拾って近くのコンビニまで捨てに行ったりします?と。
そーいう普段の日常の中で、他者のために「ちょっとしたプラスアルファ」ができるかどうか。そこが「他人のために動ける」だと思う。
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こうやって書いているオイラも別に完璧にそれらができているわけじゃなくて、むしろ自戒とすることのほうが多い。
特に、誰かがやった「マイナス」・・・つまり公共のお手洗いをバチクソ汚したままにしたり、タバコの吸い殻ポイ捨てされたりすることに対して、プラスアルファでカバーするのはむちゃくちゃ難しい。
オイラは根本的に「人間嫌い」だし、最近は特に日本社会全体として利己主義が進みまくってるなーと思うから、「なんでそんな下品で自分勝手な人間の尻拭いせなアカンねん」だなんて思っちゃうことも多い。
(最近オイラは「公共の精神ってやつは死んだな」と思いつつあるんだけど、それはそれで別でなんか書きます。)
でもそこを自戒して「いかんいかん」と思うようにしている。「自身まで堕とすことはない」と戒めて、洗面台を拭くようにしている。
一周回って自分のためなんだけどね。そーいう行為を忘れないことが、自身を突き抜けさせるから。