ネタバレが「配慮ない言動」である理由。
これを書いている現在は2023年4月30日。映画マリオが日本で公開されて2日後だ。
今朝、寝ぼけ眼でTwitterを眺めていたら、早速ネタバレツイートが目に飛び込んできて目が覚めた。察しの良い人なら物語の筋が3〜5通りくらいまで絞れそうなツイートだ。
例えば「織田信長を描いた架空の実写映画」とかでいえば、「織田家の合議の場面で、明智光秀がお堅い思想の持ち主として描かれていたのは、本能寺の伏線なんだろうな」みたいな感想。この感想見たら、「本能寺でなんかやらかすんだろうな」「裏切るか、あるいは駆けつけるか、あるいは・・・」と色々絞り込めてしまう。
そして実際に映画を見ている中で、その場面を見た時、「あ、あのツイートが言ってたのはこの場面か」ということが頭に浮かんで集中が途切れるかもしれない。
オイラは即、そのアカウントをブロックして、「マリオ」という単語をミュートした。
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先日、友人と会話した時、友人も昨今のネタバレが溢れる世界に憤慨していた。
彼は「ゼルダの伝説」の続編新作ゲームを楽しみにしていて、そのためにあらゆる情報を遮断してワクワクしていた。
ところが、彼の知人がSNSでネタバレツイートをしてしまい、彼は「ゲーム上で味わいたい大事な体験が失われた」と鼻息荒く語っていた。
オイラやその友人にとって「ネタバレは配慮がない言動」というのは言うまでもないことなんだけれど、どうやら世の中には「SNS上でネタバレしてもいいでしょ」という派閥がそこそこいるようで。
改めて言語化してもいいのかな、と思って今この文章を書いている。
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ネタバレがなぜダメなのか。それは「誰かの体験を永遠に損なうから」という一言で説明がついてしまう。
例えば映画の場合、本来は映画の中で「うわーそうだったんだ」「えぇーマジで」「テンションあがるぅー!」といった体験を得られるべきだったモノが、誰かがネタバレしてしまうことで失われてしまう。
「初体験」というものは一度失われてしまえば戻ることはない。だから、それを奪うことは制作側にも観客側にも配慮がない行為だ。
だからダメ。
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ただ、今の令和の世の中、ネタバレが社会的に容認されつつある。それは「ネタバレしたあとの体験を重視したほうが売れる」というのが広まったからだと思う。
これはオイラも理解できる。サプライズをメインに作ってしまうとリピーターが来てくれないから思ったように売れない。一方で、「ネタバレありきのコンテンツ」を作った方が、リピーターが増えてどんどん売れていく。
最近、爆発的な興行収入を記録した「鬼滅の刃 無限列車編」「ワンピース FILM RED」などなど、昨今売れているアニメ映画にはサプライズ要素ってのはほとんどない。王道も王道だけど、その体験自体が超楽しいから、ハマった人は何度も来てくれる。「鬼滅の刃」なんて、すでに漫画に掲載されている内容だしね。
サブスクが広まっているのもある。定期課金をしてもらうためには、「何度も楽しめるコンテンツ」という側面のほうが強い。一回こっきりの「サプライズ」がメインとなると、一回お金払ってすぐサヨナラになる。
長く楽しんでもらうためには「ネタバレのあと」を考えた方がいい。だからサプライズを削りまくって「もう一回味わいたい」を練りまくるのは正解だ。
だから、公式側の宣伝でネタバレしてくることも多い。大オチ部分だけ回避して、それ以外のネタはPVや公式ツイートなどで発表してしまう。そのほうがネットで盛り上がって多くに広まる。その上で「それでも見に来たい」という人をターゲットにしたほうが売れる。
これは良いか悪いかというハナシではなくって、世の中の流れ的にそうなっているよね、というハナシ。
あと、「ネタバレを見て、楽しいことがわかりきった上で楽しむ」というのが遊びの形として定着しているのもある。ゲーム実況を見てからゲームを買う。音楽をYouTubeで聞いてから買う。そーいう遊びが定着しているから、「ネタバレは前提」と考えて作る制作もアリになっている。
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つまり、エンタメ界隈の流れとして「ネタバレは前提として進もう」という流れになっているように思う。大オチだけ隠して、あとはもうネタバレありきで楽しめるエンタメを作ろう、そしてネタバレをある程度広めてトレンドを作ろう、という風潮。
でも、だからといって「ネタバレしてもいいだろ」というハナシにはならないとオイラは思う。
だって、間違いなく「楽しみにしている人の体験を奪っていて」「初体験は2度と戻らない」から。
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これは「配慮」のハナシで、「嫌がる人、避けたい人がいるならやめておこうかな」というのは、当然の配慮だよね、ということだ。
例えばオイラは虫や動物が好きで。特にヘビとクモが好きで、見かけるとつい写真に撮ってしまう。「見て見て、むっちゃ可愛いヘビ見かけたんやけど!」と思っている。
でも、オイラのSNSにはヘビが苦手な人、クモが嫌いな人がいる。だから、オイラはSNSでそれらをアップロードしない。また、他のツイートでヘビやクモのカワイイ動画とか見かけても、イイネやリツイートをしない。
それは、「オイラは良くても避けたい人がいるから」というシンプルな配慮のハナシ。
ネタバレも同じで、「避けたい人がいるなら避けてあげよう」というのが配慮で、それを考えずにネタバレツイートするのは「配慮ない行動」だ。ネタバレが社会的に容認されつつあろうが周りがやっていようが関係ない。
(余談だけど10年くらい前、オイラは蜘蛛をカワイイーーーとSNSで投稿したことがある。配慮がなかったなと、あとで猛省した。)
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そして前述したように、「初体験」は戻らない。
ネタバレありきで楽しめる体験は、あとから何度も楽しむことはできるけど「知らなかったー!」「マジで!」という初体験は、一度失ってしまうと2度と戻らない。
それを奪っておいて知らんぷり、ってのは配慮がないなんてレベルじゃないよ、とオイラは思う。
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「公式がネタバレしているんだからいいだろ」という反論を目にすることがあるけれど。
「公式がネタバレする」と「一般人がネタバレする」には天と地ほどの差がある。
公式・・・つまり提供側は、ちゃんと体験を計算し尽くしてネタバレをしている(はず)。つまり、彼らは「公式が提供するネタバレを体験してほしい」「それが体験として良質」と考えている。
一般人がネタバレしてしまうと、その提供側の意図を台無しにしてしまう。結局「公式が提供している体験を奪っている」ということに変わりはない。
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「ネタバレしても大して変わらないでしょ」という反論もあるし、確かにネタバレしたところで体験に大した影響を与えないネタもある。
ただ、少なくとも「SNS等で発言している時点」で、ネタバレ発言者は「その体験が誰かに言って共有したくなるほど良かった」というのを証明している。だから上記の反論はほとんどの場合、反論する前から否定されている。
あえて悪意のある言い方をするなら、「SNSでネタバレする人は、自己承認欲求を得るために他の人から体験を奪っている」という行為だ。
だから、配慮がない。
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とはいえ、オイラは「ネタバレを永遠にするな」と言うわけでもない。「共有したい〜〜」って気持ちもわかる。
ただ、それを少しだけ抑えてほしい、と思う。例えば公式から何かしらサプライズ発表があったら、その内容には触れないで感想だけ言っておく、とか。あるいは「数日経ったあと」「発売されて少し経ったあと」にするとか。
ネタバレがどうしても嫌な人は、それはそれで「なるだけ早く体験しておく」という配慮はしていいんじゃないかなと思う。
そういったお互いの配慮がうまく噛み合えば、どちらも幸せなポイントに落ち着くんじゃないかな。今はもう発売日当日とか、サプライズ発表即日とかにネタバレツイートしちゃうから、「配慮ないだろ」ってなってるわけだし。
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友人は時折、「そんなにネタバレが嫌ならSNS見なきゃいいのに」と言われるらしい。なんて配慮のない言葉だろう。人の楽しみを奪っておいて、「こんな場所に来るお前が悪い」なんてよくいえたな、と思う。
遊園地で順番を抜かして「嫌なら遊園地に来るな」と言ってるようなものだ。
遊びを楽しむ際において「これはあの人にも楽しんでほしいから黙っておこう」みたいな配慮が薄れつつあるのは悲しさもある。
ここからは社会の風潮に対する邪推、蛇足だけれど。
こーいうのって「ホリエモン」「ひろゆき」「ヒカル」みたいな横柄に見えるインフルエンサーが市民権を得ているから、というのもあるのかな、と邪推してしまう。
彼らインフルエンサーは「横柄に見える演出」をするバランス感覚が凄まじいだけで、よく見るとむっちゃ礼儀正しいんだけど、まぁ多くの一般人はそこのバランス感覚がないまま真似して横柄に振る舞ってしまう。
公共の場って、横柄な人が増えると「横柄な人の一人勝ち」になるから、公共の精神が結果的に消えていく。。。ということがいろんな場所で起きている気がするね。
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冒頭の「マリオという単語をミュートした」というのを思わずツイートしたくなったけれど我慢した。
嫌なことがあったんだ、というツイートは、それを見ることで嫌な気分を伝播させてしまうから。これも配慮だ。
この場所は「能動的に見にこないと来れない」から、それはある種の自己責任だと思うけれど、SNSはある種公共化しているから。公共の精神が必要だと思う。