他者の死とは、命の在り方が変わるだけ
オイラはもう30年以上生きているから、身内や近しい人が他界する、ということに何度か遭遇してきた。
そーいった場面でも、オイラは感情が溢れたり崩れたりすることはなかった。涙をこぼしたこともないんじゃないかな。ある種淡々としているように見えると思う。
それをよく「感情がない」みたいな言われ方をするんだけどさ。これは死生観の違いだと思う。
オイラは「死」を、世界における日常的な出来事だと思っているのさ。
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ほぼ全ての生きている命は、いつか死ぬのさ。
人類にはこれまで数千、数万、あるいはそれ以上の歴史があるけど、その中で、死ななかった人間、ってのはいない。おそらく、「誰も死ななかった日」ってのもないだろ。
つまり、死ってのは誰にでもいつしか訪れる、日常的な出来事なんだよ。
そして、死の可能性ってのは、実は日々の中に当たり前のように存在する。信号を渡る時、電車やバスに乗る時、階段を降りる時・・・そのシーン毎に、死ぬ可能性はある。限りなく0に近いから気づかないだけでね。
その死の可能性をうまく回避して今日に至っている、という意識がオイラにはある。
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そしてオイラは、他の人に対しても同じようなことを思う。
今日あった友人が、明日死ぬかもしれない。「またあとでな」と別れたのが、今生の別れになるかもしれない。死の可能性ってのは誰にでもあるからね。
実際、とある場所でお酒を飲み交わして仲良くおしゃべりした人が、1ヶ月もしないうちに登山中、滑落して亡くなった、という経験もある。
もちろん死なないでほしいし、健康で長生きしてほしいと切に願うけど、死の可能性ってのは0じゃないのさ。
オイラはふとした折に、身近な人の死を意識してしまう。「もしアイツが死んだら」「もしかしたら死ぬかもしれない」といったことを、考えてしまう。
そして、「覚悟を決めるしかない」という結論に収まる。それはいつしか必ず訪れるからね。仕方ないのさ。
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そんなことを何度も繰り返してるから、いざ誰かが亡くなったとしても、悲しくはない。寂しくはあるけど、悲しくはない。
それは日常的な出来事だからね。
それに、「想い出として残り続けている限り、心の中では生きている」とも思うのさ。世界ってのはどう捉えるか、でしかないからね。
例えば、あとになって「実は3年前に亡くなっていた」という友人がいたとして。実際に亡くなっていたとしても、オイラの世界ではその3年間は生きているも同然なのさ。
つまり、変な言い方だけど、他人が死ぬのは、その人が「死んだ」と認識するタイミングであって、実際の死ではないのさ。
「死」とはつまり、命の在り方が変わるだけ。夢の中でまた逢える。
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一方で、もし親友が大病を患った、などいった場合は、ちょっと感情を揺さぶられるかもしれないな、と思う。
「死」は日常的な出来事だけど、「大病」「衰弱」は日常ではないからさ。これは結構落ち込むんじゃないかな、と思う。