機会が均等なら、結果は不平等でもいいはずじゃないかな
オイラはよく仕事について友人とハナシをする。その時によく話題にあがるのは「使えない人をどーするか」だ。
この友人のハナシというのは面白くてさ。。ただ面白いのは、彼が面白おかしく話してくれるからであって、実際当人からしたら全く笑えないハナシなんだけどね。
この友人の周りにはよく「使えないポンコツな人」が登場する。彼の仕事のハナシを聞くと大抵はポンコツ人のポンコツ話になるのさ。嫌気がさして部署移動したり上司にかけあって追加人材要求したらソレもポンコツ。というかかけあう上司も8割がたポンコツ。
そして、そんなポンコツたちではまともに仕事ができるわけもなく、彼はポンコツたちの尻拭いをするハメになる。彼の仕事がなぜまともに動いているのか。。その答えは「彼が自己犠牲して頑張っているから」だとオイラは思っている。
あるアニメに「戦略が戦術に潰されてたまるものか」という有名なセリフがあるけど、彼の場合はクソ戦略を彼という戦術によってカバーしている状態だな。
とはいえ、この友人以外にも、「自分の周りのポンコツ人」トークはよく聞く。「上司が***で」「同僚が**」などなど、といったハナシは酒飲み話の定番トークだ。
オイラでさえもなくはない。。と言うと今この文章を読んでいるオイラの同僚が「オイオイどーいうことだよ」って思うかもしれないけど。友人たちに比べれば無いに等しいけど、たまーーにはある。オイラも人間だからね。
これは仕事に限らず日常生活においてもあるハナシだ。槍玉に挙げられやすいのは「レジがおそい人は何やってんだ」とかだな。
世間的には「レジが遅くても待ってやれよ」という言葉もある。ただ、オイラはレジがおそい人には、申し訳ないけどイライラしてしまう。理由はどーあれ、「遅いなあ、何やってんの」とオイラは思うわけだ。
これはある種の平等を推し進めた対価なんじゃねえかな、とオイラは思っている。
レジの例では、「イライラする方が間違ってる、不寛容だ」みたいな言論もある。ACが「寛容ラップ」っていうCMを流していた時期もあった。
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レジが遅い人の中には、年老いたり、あるいは何かしらの病・怪我によって指先が不自由で小銭を出すのが遅れる・・とか、そーいう事情もあると思う。そもそも不器用、ってのも個性の1つだ。そーいった個性に対してイライラするのは違うんじゃねえか、みたいな糾弾があるわけ。
でもオイラは正直コレには賛同してなくて。
レジでもたつくことがわかってるならあらかじめ準備しておくとか、キャッシュレスを使うとか、いくらでも回避策はあるだろ?ソレをしないってことは、申し訳ないってあんま思ってないんだよ。行動が伴ってないってことは、「多少申し訳ないけど、まぁいいだろ」って程度だ、ってこと。
実際、オイラはレジはなるだけ早めに済ませるようにしている。基本Suicaだし、Suicaが使えない場合でもスマホ決済、クレカをすぐに出せるようにしている。最悪現金しか使えなくても、サッと出すようにしてる。待たせるのが申し訳ないから、待たせないように準備するわけ。
「レジでもたつく人にも寛容に」ってのは、平等の産物だ。どんな人も自分らしく振る舞う平等があるべきだ、っていう考えだ。
でも、オイラは平等には2種類あると思っていて。「結果の平等」と「機会の平等」の2つだ。
オイラはこのうち、「機会の平等」には賛同している。誰しも機会は平等に与えられるべきだと思ってる。
一方で、結果は平等である必要はない。。むしろ不平等であるべき、とすら思っている。そうじゃないと自分を磨いたり鍛錬したり、ってことをする意味がなくなるだろ。
機会が平等であれば、結果は不平等であるべきだ。
社会では、「平等であるべきだ」という声は挙がるけど、一方で権力者は「機会は不平等のままがいい」と思っている。なかなか自分の子どもを崖から落とす獅子はいない。自分の後継を子どもに・・ってのは珍しくない。
だから、「結果の平等」だけを「平等」だとして推し進める。機会がどうあれ、得られる結果が平等なら、「ほら、平等だろ」と言えるからね。
でも、オイラはそれは不平等だと思う。
オイラがレジでモタつかないのは、オイラが準備しているからだ。支払うお金を概算して用意し、商品のバーコードを店員さんに見えるように置いて、支払い方法やポイントカードの有無、レジ袋の必要不要を先に答えているからだ。
それをせずにレジでもたついて、「イラつく方が不寛容」ってのは、ちょっと賛同できない。オイラからすると「周りに対する思いやりがないなあ、自分勝手だなあ」ってハナシで。さらに言えば、「しっかり準備している自分が、準備していない人によって不利益を被らされる」というところに、不平等をヒシヒシと感じるからだ。
機会の平等を推し進めず、結果の平等だけをいびつに推し進めている部分は、会社にもあるんじゃねえかな、と思う。
先ほどの友人のハナシで言えば、「友人が他者の尻拭いをすることで成り立っている仕事」なんだから、その仕事の報酬はその友人がかっさらってもいいはずだ。でも実際は、友人もポンコツ人も同じように毎月変わらない報酬をもらうわけだ。
それは「結果の平等」だけを見ているからだろ。もちろん長期的には友人は出世するのかもしれないけど、短期的にも成果に応じて報酬は上がり下がりしていいはず。でもしない。毎月変わらない給料だ。
これはオイラは不平等だと思う。機会は均等に与えられ、その中で優劣の差が明確についているのに、結果が平等・・・というのは不平等だろ。頑張る意味が薄れちゃう。
少し前に「頑張らない生き方」みたいなのが流行った。成長なんてしなくていい、必死に生きなくてもいい、緩やかに日々を生きてもいいはずだ、と。
オイラはコレを否定するわけじゃないけど、「頑張らない生き方をするなら、その分の不利益も受け止める覚悟をしろよ」とは思う。
頑張らない生き方を選んでいるのに、頑張ってる人たちと同じような利益を得よう、ってのはちょっとソレは平等とは言わないぜ、と。
レジでもたついて周りの人の時間を奪うなら、「イライラされる」くらい許してよ、そっちこそ不寛容だね、と思う。