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さよならだけが、人生だ

森山直太朗さんの楽曲で「いつか、さらばさ」というものがありまして。オイラはこれを座右の銘にしています。

この楽曲は、おそらく人生を連れ添うと誓い合った男女の男性側の生活への捉え方を描いた詞です。

僕が君について何か知っていることといったら
君が紅茶に砂糖を三つ入れるってことだけさ
こんな言い方じゃ誤解を招くかもしれないけれど
他人(ひと)が二人でいるにはそれぐらいが丁度いいんだ

そうさ 合言葉は「どうせいつかは、さらばさ」

いつかさらばさ / 森山直太朗

どうせ人とはいつか「さらば」をするものです。単なる別離もあれば、最後まで求め合いながら死別することもあるでしょう。関係性というもののエンディングはかならず、「さらば」です。

でもそれを悲観的に捉えるのではなく、いつかさらばしてしまうからこそ、一瞬一瞬をありがたいものと感じれます。すべての関係性というものが永遠ではないからこそ、互いを尊重していられるんじゃないかなあ、と。

ただ、楽しければ楽しいほど、「永遠」を願ってしまうのも事実です。だって楽しいのですから。いつまでも続いてほしいってものです。

でも関係性というものは、永遠を願うような行動に出てしまうと、途端に崩れ始めてしまうような気がするのですよ。それは独占であったり固執であったり依存であったり怠惰であったりにつながってしまいます。永遠を願うこころが、関係性を腐らしてしまう。

だから、「いつか、さらばさ」という言葉は常に念頭に置いておきたいのですよね。

「さよならだけが人生だ」という有名な詩の一節もあります。もともとは中国の詩の一節「人生足別離」を井伏鱒二さんが和訳(意訳)した一文です。

この盃を受けてくれ
どうぞなみなみ注がせておくれ
花に嵐の喩えもあるぞ
「さよなら」だけが人生だ

勧酒 / 原・于武陵、和訳・井伏鱒二

この詩には、2つの解釈があります。親友との別れを惜しむ「惜別説」と、人生とは常に別れを伴うことへの讃歌だという「一期一会説」です。オイラは一期一会説のほうで解釈しています。

「さよなら」だけが人生であるからこそ、楽しく今を乾杯できる。次いつ会えるかわからないからこそ、今この時交わした盃を味わえる気がするからです。「また次もあるから」と思うことが、崩壊の始まりの気がするのですよ。

また、「さらば」を忘れて永遠を願ってしまうと、変に相手のことを知った気になったり、近づきすぎたりしてしまいます。そーいうことをしても、関係性が消えないと思い込んでいるからです。

「君が紅茶に砂糖を三つ入れるってことだけ」くらいで丁度いいのですよ。相手のことを知っている、ってことは。趣味のこととかなんだとかは別に知らなくてもいい。その時その時で感じればいいことだと思います。

どうせいつかは、さらばですから。

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ちなみに、「さよならだけが人生だ」に対して、「さよならだけが人生ならば」という返歌があります。寺山修司さんという方が歌ったのですが。

さよならだけが人生ならば
建てた我が家はなんだろう
寂しい寂しい平原に
ともす灯りは何だろう

さよならだけが人生ならば
人生なんかいりません

さよならだけが人生ならば / 寺山修司

「さよならだけが人生だ」とするならば、そこにはやはり寂しさが漂います。人はだれとでも永遠に寄り添うことはできない。それはやはりとても寂しいものです。

その孤独感を必死で拭い去っているような、そんな想いをオイラはこの詩から感じます。詩としてはむしろ違和感があるほど明確で直接的な否定には、そこにある感情を浮き彫りにしている気がします。

寂しい寂しい平原にともす灯りは、きっと盃を交わしたその時に受け取った松明なのだと思います。