憧れは理解から最も遠い感情
「憧れは理解から最も遠い感情」というハナシをします。
この言葉は漫画「BLEACH」で出た言葉です。オイラはBLEACHから結構いろんな教訓を得ている気がします。この言葉もその1つですね。
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何か、誰かを理解しようとするとき、そこには一定の冷静さ、客観性が必要になります。何かの感情に囚われてしまうと、理解することは困難になるのですね。
たとえば「憧れ」や「好き」などの肯定的な感情。
一見すると「誰かを憧れている」「誰かを好きである」ということは、その当人を深く理解しているように見えますよね。理解していなきゃ憧れたり好きになったりなんてできないよね、と。
ところがぎっちょん、「憧れ」「好き」という感情に囚われると、理解からは離れてしまいます。なぜなら、憧れの相手、好きな相手に対して「否定的な視点」を持つことができなくなるからです。
理解に必要なのは、「当の本人の気持ちになりきって、その上で解釈する」です。自分の主観性を断ち切って、その対象の環境などを置き換えて、その上で飲み込んでみる。それが「理解」です。そこでちゃんと飲み込めれば「理解できる」であり、飲み込めなければ「理解できない」になります。
役者さんの中には、役を理解するために役と同じ生活をしてみる人がいますよね。アレが「理解」の1つの極致です。
「憧れ」や「好き」というのは、「理解」の最初のステップである「本人になりきる」という部分で邪魔になるのですね。理解するためには、「好きは好きだけど、それは一旦置いといて」という客観性がいるのですが、「憧れ」や「好き」が強すぎると、コレができない。だから、憧れや好意を抱けば抱くほど、理解からは遠くなるのです。
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だからオイラは、あんまり誰かを憧れないようにしています。
オイラにも憧れの人というのは存在します。光田康典さん、加藤正人さんなど。ムチャクチャ憧れています。
が、この憧れという感情を放っておくと、彼らから離れてしまいます。なので、「それはそれとして」、彼らが何を考え、何をしているのか、それらはどーいう作用を及ぼしてきたのかを冷静に判断するようにしています。
また、彼らのこと、彼らがやることを一概に「すごい」とかで片付けないようにもしています。この「すごい」と手放しに賞賛するような言葉は、実は理解からは遠い感情だと思っているからです。この言葉を使った瞬間に、相手が対岸の向こうに言ってしまう。
だから、「負けないように」「1/10000でも追いつくように」というよーな言葉を使って、せめて同じ岸に立ち続けるように意識しています。人によってはおこがましいと思われるかもしれないですが、理解のためには必要なことだと信じています。
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ちなみに、「憎しみ」とか「軽蔑」も理解からは遠いです。まぁこちらはわかりやすいですね。憎しみをぶつけるあまり相手のことを理解できなくなる、というのは実にわかりやすいですね。
ただ、「憧れ」とか「好き」とかも同じように理解を遠ざけてしまうよ、と。むしろ「憎しみ」などのようにわかりやすくないので、理解から遠ざかっていることに気づけないまま終わってしまう可能性が高いよ、というハナシでした。
まぁ、「理解」よりも「好き」のほうが大事というならそれはまったく問題ないのですが。
「憧れ」に関しては「追いつきたい」という感情ですからね。それなのに「理解」から遠くなってしまう、というのは皮肉な罠だと思います。