no-image

努力なんてしないに越したことはない

「努力なんてしなくていいならしないほうがいいよね」というハナシをします。

まずはじめに「努力」について定義します。この記事内では、努力を「やりたくないけど、目的のために頑張ること」とします。

要するに「やりたいこと」「やってて楽しいこと」は、この記事内では努力に含めません。「鍛錬」とかそーいう書き方をします。よしなに。


オイラは、「努力しなくても幸せに生きられるなら、それが一番いい」と思っております。

なぜなら、努力はコストが高いからです。スタートのアクセルを踏む時点で体力使うし、そのあともモチベーション維持にコストを払い続けないといけません。

その上、努力が実るには時間がかかります。「努力」と思っている時点で適性がないからです。

「努力」にはモチベーション・集中力が必要ですが、人は集中力している間は視野が狭くなるのですね。思考が緊張状態に陥り、柔軟な発想ができなくなって、愚直になりがちです。そのため、「こーやって工夫したほうが良い鍛錬になるのでは?」みたいな発想ができなくなるのですね。手段が目的化しがちなわけです。

そのため、「努力」と思っている時点で鍛錬が身を結ぶまでの時間は長くなりますし、無駄な努力も増える可能性が高いです。

なので、オイラはなるだけ努力をしないで済む人生を送るために、努力を積み重ねています。


たとえばオイラは今英語スキルを少しずつアップさせていますが、それも「英語が日常的に使われている会社・チームに入ったから」です。別にオイラ自身は努力していません。ただ仕事をしているだけです。

また、プログラミングを生業としており、ちょっぴりは技術力を認めていただいておりますが、これもオイラは努力しておりません。ただ、技術力が自分より高いエンジニアに囲まれて仕事をしていて、その中で「へぇーー、そんなことできるんだ!」と楽しく見させていただいているだけです。

そもそも、オイラの休日は旅行したりゲームしたり本を読んだりで忙しいのです。ただでさえ時間がないので、時間がかかりすぎる「努力」なんぞに時間を使っている暇はないのですよ。


もちろん、努力ゼロな人生を送るのは相当難しいと思います。

まず日本では「勤労の義務」がありますが、勤労とは基本的に「誰かがやりたくないことを代わりにやる」というモノなので、本質的に「努力」です。対価が払われるから努力のコストが報われるだけですからね。

また、2020年現在の日本は落ちていく国ですので、その中で生き抜くだけで、大小様々な努力は必要でしょう。若者層などの少数派は特に、多数派や既得権益を得ている人たちから不合理を押し付けられる立場にあります。

また、世界的に見ても、資本主義における「富裕層とその他」の壁は高くなる一方です(21世紀の資本を参照)。大多数である「その他」勢は、努力してなんとか生き抜かない限り、より貧しくなる一方なわけで、「幸せに生きるなら努力しろ」というのはまぁ、ある意味真っ当な哲学です。


ただ、この「努力」をなるだけ最小にしつつ、「幸せ」が満足できるポイントを探すのが大事なんじゃないか、とオイラは思うのですよ。

だって「努力している」って不幸ですから。ないほうが人生幸せになるに決まってます。

このポイントを忘れて、「努力しないよりも、努力しているほうが素晴らしい人間だ」みたいな言論を言う人は信じないほうが良いとオイラは思います。コストを度外視した机上の空論です。それじゃ上手くいかねーから頭使って考えるんじゃねーか、というハナシです。

「努力しなきゃいけない場面もあるが、しないに越したことはない」くらいが、努力の位置づけとしてちょうどいいとオイラは思うのです。


ちなみに、「向上心」とか「成長」とかと「努力」は必ずしも紐付かないので、ここは分けて考えたほうが良いです。

たとえばオイラはカラオケで上手く歌えるようになりたい、という向上心は持っていますが、そのために行っているのは「鍛錬」「創意工夫」であって「努力」ではないです。やりたいからやっている、という点で努力とは真逆です。遊びです。

人って「やりたいことをやる」だけでもしっかり成長するので、「努力しないと成長はない」みたいな考え方は不幸の種だとオイラは思います。