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西洋哲学と東洋哲学の違いが面白かった。

「西洋哲学は【真理追求のための知識体系】だけど、東洋哲学は【真理を発見する体験の手順書】」という話を、します。
下記の本を読んだ感想文なので、オイラの文章を読むより下記書籍を買った方が、きっといいです。


「著名な哲学者とは?」と聞かれた時、なんと答えますか?ニーチェ、ソクラテス、デカルトなどでしょうか。

多くの人々が知っている哲学者の名前って、「西洋人」の名前ですよね。「じゃあ、【東洋文化】あるいは【日本】における有名な哲学者って誰?」と聞かれると、一般的にはイメージしづらい気がします。オイラはイメージできませんでした。

ところが、実際に名前を挙げると、釈迦、孔子、空海など、多くの人が聞いたことのある名前が並びます。ただ、「え、この人たちって哲学者なの?」と思うかもしれません。彼らは2019年現在、義務教育などで「宗教家」とされています。

でも、「哲学」を「世界に存在する価値観を新たに発見すること」だと定義すると、彼らは「哲学者」になるわけです。


なぜ、「哲学」というと「西洋」が思い浮かびやすいのか。なぜ、日本に馴染みがあるはずの「釈迦」や「空海」などは「哲学者」として見なされにくいのか。

理由は簡単、「西洋の哲学のほうがダントツにわかりやすいから」です。

西洋の哲学とは、基本的に「論理の組み立て」から成る知識体系です。「A=B」かつ「B=C」なら「A=C」だよね、というような論理を組み立てたものが、西洋の哲学なのです。

なぜなら、西洋哲学は「この世界における不変の真理」を追い求めているからです。「ボクだけがわかる最強の真理」ではなく、人類全員が共有できる「世界の真理」を追い求めているため、「説明可能な知識」であることが条件なのです。

つまるところ、西洋の哲学とは、「同じ論理を組み立てれば誰でも同じ結論に辿り着ける」という性質を持っているので、わかりやすいのです。(もちろん例外はいますが。)


一方で、東洋の哲学は難しい。なぜなら、東洋の哲学とは「知識体系」ではなく、「体験(=悟り)への手順書」だからです。

東洋の哲学における矛先は、「世界」はなく「私」です。たとえば自由について考えるとき、西洋哲学は「この世界における自由とはどーいう状態か」というものを考えますが、東洋哲学は「私たちはどうすれば自由を体験できるのか」ということを考えるわけです。

そのため、東洋の哲学では、「自由とはこーいうものなんですよ」ということよりも、「バンジージャンプしなさい。ほら、今あなた自由を感じたでしょ。」ということを重視するわけです。そのためには、「方便(=嘘)」も普通に使うわけです。

そーいう意味では、医学などにも通じるかもしれません。西洋医学は論理的なアプローチですが、東洋医学は実利的なアプローチなのです。「なんかわかんないけど、ここのツボ押したら治るんだからいーじゃん!」という感じですね。

そして、「体験(=悟り)」がゴールなので、「説明できない」のです。


たとえば、生まれてからずっと、地下シェルターで暮らしてきた人々がいたとします。地下シェルターの広さは東京ドームほどしかありませんが、人工植物や人工太陽などがあり、地上と変わらない、不自由しない生活を送ることができます。

ところが、その地下シェルターには「空(そら)」がありません。天井にはモニターが設置されており、「空模様の映像」が常時流れていますが、実際には密閉空間です。彼らは「四角い空(そら)の映像」しか見たことがありません。

そこに住む人々は、書籍によって「空(そら)」の知識を得ることができます。宇宙空間や太陽、そして光の屈折や雲の発生などによって「空(そら)」というものが形成されていることを知っています。そして、同じような映像は毎日、天井に映し出されています(ただし、四角いですが)。

さて。

彼らは「空(そら)」を知っているでしょうか?

彼ら自身に「空(そら)ってなぁーに?」と聞けば、彼らは得意げに知識を披露します。「この世界には宇宙があってね、そこに超強力に光る太陽があるんだ。その光が地上に降り注いでね……」といった具合に。その説明は、私たちが「空(そら)」を説明する場合と全く同じです。

ですが、彼らは「空(そら)」を知っていますか?

東洋哲学から言えば、答えは「No」です。なぜなら、彼らは「空(そら)を実際に体験していないから」です。


では、地下シェルターにいる彼らに「空(そら)」を伝えるためにはどうすればいいでしょうか。

西洋哲学的アプローチでいけば、「空(そら)とは、XXXである」という論理的証明をします。「AをするとBになって、BになるとCになる!ほら!だから空ってXXXなんだよ!」という、「誰でも同じ論理が組み立てられる=世界共通の真理」を解明することが、西洋哲学的アプローチです。そして、それを書籍にして地下シェルターに広めるでしょう。

一方、東洋哲学的アプローチなら、こんな教えを説くのです。「この地下シェルターの外には神仏が築いたユートピアがあるのだ!」あるいは「この地下シェルターは罪深き人類の地獄なのだ!しかし、自力で地上への道を切り開いたものだけが天国にいけるのだ!」でもいいですね。

そしてこの教えに従った新興宗教の信者達は、各宗派同士で反発しあいながらも、みんな地上への道を模索します。そして、ある信者が地上に到達した時、無限に広がる空(そら)を見て、こう叫ぶのです。

「これが『空(そら)』かッ!!!」

そして大僧正はこう返すのです。

「そう、それが『空』だ。」

これは例え話ですが、「『南無阿弥陀仏』と唱えれば救われるよ」というのも、論理ではなく手順です。「救われるとはどういうことか」よりも「実際に救われること」のほうががずっと重要。だから、「阿弥陀がいるかどうかとか関係ない、というのが東洋哲学なのですね。


「汝とは『それ』である」という、東洋哲学を象徴する言葉があります。

これは、「私とは一体何なのですか」というよーな問いに対して「汝(=私)というものは『それ』という言葉でしか表現できない」という意味合いの言葉です。「私とはXXXです」という言葉では「私」は言い表せず、上述した地下シェルターの例え話のように、

「これが『私』か!!!」

「そう、『それ』が『汝』だ。」

というよーな性質を持つのが「私(=汝)」なのだ、という言葉です。

これは東洋哲学的アプローチを象徴する言葉だなあと思います。西洋哲学では、「もうそれって証明できねーじゃん」とか「悟り?そんなの思い込みでしょ、考えても意味ないじゃーん」と切り捨てることも多々あるような概念ですが、東洋哲学ではそんな考えが「頂点」にあるのですね。


余談ですが、途中で「空(そら)」の例えを思いついた時に「キタ」と思ったのですが、東洋哲学には「空(くう)」という代表的概念(色即是空とか)があるのを思い出して「すげーわかりづらいやん。。」と思って急いでふりがなをつけました。