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Stay Gold, Ponyboy.

オイラがやってきたことは「哲学」だった

「オイラがやってきたことって、哲学だったんだ」という話をします。


先日、「14歳からの哲学入門」という本を読みました。

この本は「飲茶さん」という、「哲学的な何か、あと科学とか」というWebサイトを運営している方が書いた本です。

参考: 哲学的な何か、あと科学とか

オイラは大学時代にこのサイトと出会ったことが、ひとつのエポックメイキングなイベントとなっています。「論理とは何か」「矛盾とは何か」という、物を考える上での基礎的な部分はここで知りましたし、「哲学的ゾンビ」「クオリア」などといった、昔からオイラが考えていた「何か」に対して名前と歴史を教えてくれた、貴重なサイトです。

そんな飲茶さんが先日、こんなツイートをしていました。

https://twitter.com/yamcha789/status/1131567845249130504?s=21

https://twitter.com/yamcha789/status/1133674992447643648?s=21

このツイートがオイラにはとてもスムーズに入ってきたのです。それで「この方の言葉で、哲学というものともう一度向き合ってみよう」と思って上述の本を読んだのですね。

そんなオイラはこの本の中で「オイラがやっていたのは哲学だったのか」と気づきました。しかも「はじめに」の章で。

(正確な表現はとても秀逸な書籍の方を参考にしてください。オイラの言葉があくまで「かいつまんだモノ」「オイラが解釈したもの」として扱っていただければ幸いです。)


この本の中で言う「哲学」をとてもかいつまんで言うと、こうです。

「哲学とは、通用しなくなった価値観(常識など)に対して見つめ直し、新たな概念を見出すことであり、哲学者とはそーいった通用しなくなった価値観に対して妥協も反抗もできず、見つめ続けることしかできないズレた人たちのこと」

ここでオイラは、「自分が今までやってきたことは哲学だったのか」という感動を覚えました。


オイラは昔から、何かにつけて「それって何?」「これはなんで?」と聞く子どもでした。

とは言っても、誰しもが14歳くらいのときはそんな感じだったと思います。「死んだらどうなるの」「なんで生きているの」「大人って正しいの?」「なんで勉強するの?」「なんで人を殴ってはいけないの?」など。これら自体は特に珍しくもない疑問なのだと思います。

ただ、オイラは「妥協」も「反抗」もできない子どもでした。「なぜ」を突き詰めてしまうのです。その「なぜ」をちゃんと解消しないと前に進めないような子どもでした。田舎で星空を見上げながら1人でひたすら「死」について考え続ける子どもでした。それが楽しくもありました。

(大学受験のとき、「なぜ」を教えてくれる「物理」や「数学」は得意でしたが、それが隠されている「化学」や「世界史」はめちゃくちゃ苦手でした。)

そしてオイラが考えた「なぜ」の答えを周りに話すと、大抵は「変人」だと扱ってきました。「独特な感性」「個性的」など、いろんな言葉でオイラを変人扱いしてくるのです。

ただ、オイラは無視できない人間なので、今でも同じように、いろんなことに対して「それってなんなの?」「本当にそうなの?」ということを問い続けています。「その会議っているの?」「毎日8時間も働かないと成果ってあげられないの?」「飲み会って本当は別の方法で代替できるんじゃないの?」と。


オイラはこれを「パズルゲームを解いているだけ」という風に今まで表現してきたのですが、実はこれは「哲学」だったのです。

オイラは「常識」がわからないことが多いです。とは言っても自分が特別な能力を持っているわけでは全然なく、むしろ「常識を察知する能力がない」と思っています。14歳の子どものようなものです。

ただ、その無能さが哲学者としてはとても有益だったのです。「これが常識だから」と言われても「え、わからん。だって無駄でしょ」「常識とかわからんけど、それよりこっちのほうが得じゃん」と思っちゃうからです。「常識外れ」を選ぶことに損がない限りは、「だってこっちの方がいいし」を選ぶ人間です。だってそっちの方が得なんだもん。(そしてたまに怒られます。)

フリーランスになったことも、再度、会社員として今の企業に入れたのも、全部、「仕事」を「哲学」したのです。「オイラにとって仕事ってなんだっけ」「何を得たいんだっけ」「どうするのが得なんだっけ」と。そこの判断材料にあるのは「世界というパズルゲームのピース」であって「常識」ではなかったです。

オイラは決断する時、常に「哲学」をしていたのです。


さらに、自分を「哲学をする者」=哲学者だとすれば、自分が変人だと扱われる理由も客観的に説明できます。

なぜなら、哲学者とは「常識に妥協できない人」だからです。そして「常識」とは「今いる人たちが存在する前から存在していた価値観(=当たり前)」なので、その「当たり前」が当たり前じゃないオイラは、「当たり前じゃない存在=変人」なのですよ。

(オイラには「常識」という言葉は、上述した定義以上の意味合いがないので、「常識的に考えて」はオイラには真剣に理解できない概念です。自分が存在する前からある価値観は、勉強でもしない限り知り得ないはずなのに、なんでみんな知り得ているのでしょう。。)


ちなみに、オイラが科学を信頼するのは、「事実」が今いる世界で一番「確からしいこと」だからです。ある「事実」は、同じ条件が起きればもう一度発生するのが、今オイラが生きている世界では確実性の高い真理なのです。

もちろん、ある日突然、それが変わる可能性もあります。実はこの世界は仮想空間上であり、私たちは脳みそに電極が繋がれた存在でしかなかったとしても、その真偽をオイラたちは証明できないのです。そしてもし真だった場合、仮想世界のルールがある日突然切り替えられる可能性も、もちろんあるのです。

オイラはその可能性も無視できないので、オイラには、世界は常に不確かなモノとして映っています。多分、そのせいもあって、「誰かが死ぬ」とか「誰かと別れる」とかのイベントにそれほどまで心が動かないのでしょう。

なぜなら、それは「合理的」だからです。人は皆死ぬし、出会えばいつかは必ず別れるのですよ。それならまだ予測の範囲内なので、驚きはないのでしょう。


上述した「14歳からの哲学入門」、ものすごく面白いので皆に勧めたいのですが、一方で「哲学者でない人たち」がアレを読んだ時にどう思うのかは 正直わからないところがあります。別の世界のことのように思うのでしょうか。

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