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Stay Gold, Ponyboy.

昔のゲームは技術が乏しかったがゆえの「余白」があった

「昔のゲームは表現方法が乏しかったからこそ生まれる余白に様々な文脈が乗ってて良かった」という話を、します。

「クロノ・クロス」というゲームの話も含まれます。


オイラが一番好きなゲームは「クロノ・クロス」です。1999年に出たPlayStation専用ゲームで、名作RPG「クロノ・トリガー」の外伝的立ち位置になります。

世間的には「賛否両論があるゲーム」として語られていることが多いです。いろんな要因があるのですが、そのうちの1つとして、「プレイヤーの解釈に委ねられる部分がとても多いシナリオ」であり、「余白がとても多いゲーム」というのがあります。悪く言えば「説明がちゃんとされない部分が多い」のです。

例えば、とある人物の行動は軽く矛盾を起こしています。あるタイミングではとても主人公のことを思いやってくれるのに、別のタイミングでは主人公のことなんて気にもかけていないような行動に出る。。といった感じです。

ただ、物語上でなぜその人物がタイミングごとに矛盾しているような行動をとるのか、は明確に語られることはありません。ただ、物語の端々でそいつと遭遇するうちに「こいつ、もしかして人格破綻してるんじゃね」という解釈ができるような手がかりが散りばめられている、といった具合です。


よく、「昔のゲームは良かった」「いや、今のゲームは良い」などと語られることがあります。どっちが良いなどと比べるのは無粋だと思うのですが、「昔のゲームのほうが余白があったよね」と思います。

理由は簡単で、昔の方が表現手法が乏しかったのですよ。

今(2019年現在)は、まるで実写の映画のような表現が可能ですが、PlayStationなどの頃は不可能でした。人物ポリゴンに「指」はなく、「表情」を変えることさえできないゲームも多かった。人物の悲しみを表現したい時に、悲しんでいるような表情をとることができなかった。

その分、様々な工夫によって、表現に「文脈」を持たせていました。音楽はその大きな1つです。今のゲームは究極、音楽以外の表現が極まっていれば、音楽はその補完的立ち位置にしかならなかった。でも当時は「音楽で8割くらい表現する」とかしないと表現できなかったのですよ。

光田:普通のドラマとかに音楽をつけるときって、正直「音楽いらない」って思うこともあるんです。俳優さんの演技がすごすぎて、音楽で語る必要がないのかなと。映像を補完するぐらいしかできないんじゃないか、と。当時のゲームはいい意味でグラフィックがチープだった分、音楽を前に出せたというのは確かにあると思います。

岸田:僕も映画の音楽つけることがあるんですが、「もっと音楽つけてくれ」ってよく言われるんです。細かく指定してくれた方が僕はやりやすいんですけど、自由にやったら「5回ぐらいしか音楽いらない」って思ったり。映像の邪魔するし、「お前らの世界でそんな音楽流れてないやろ!」みたいなことは思っていて(笑)。

光田:本当にそうなんですよね(笑)。

引用元: https://eonet.jp/zing/articles/_4100776.html

そして、そーいった表現上の工夫が必要だった分、「余白」をあえて持たせるようなゲームがとても多かったのです。

例えば上述した「表情」に関しても「メタルギアソリッド」というゲームでは、あえて目元を薄暗くして目を描かないことで、「表情をプレイヤに想像してもらおう」という表現をしていました。それが功を奏してか、「20世紀最高のストーリー」と評されました。今ではとても目も当てられないような3Dモデルのクオリティにもかかわらず、です。

「クロノ・クロス」も同じで、「技術による表現では限界がある。なら【余白】を駆使して表現していこう」というような意志がそこかしこにあります。表面上はとても乏しい表現技術なのですが、そこに様々な文脈が乗って、実写をも超える表現が生み出されているように思います。

これは「漫画」とかと近い気がしますね。漫画も使える表現手法はとても乏しいですが、それが返って優れた表現の工夫につながっている気がします。


多分、この「余白前提のゲームの作り方」というのが、いわゆる「今のゲーム」「昔のゲーム」の差であり、今なお「インディーズゲームが持っている味」として現代に引き継がれている要素なのだと思います。ある意味で、自分たちから「楽しみに行かなければ楽しめない」「受け取りにいかなければ受け取れない」というゲームだったのです。

語弊を恐れず言えば、今は「与えられる体験をただ味わえば良い」というゲームも多いですからね。PSVRの「Astro Bot」なんかもそれで、ただ与えられるVR体験を咀嚼しているだけでめちゃくちゃ楽しい、という。「Grand Theft Auto」シリーズとかもそうで、むしろ食べ残しが出る始末です。

悪いというわけでは全くないのですが、「昔のゲーム」で味わえていたような「自分から楽しみに行く」といったような体験が得られなくて寂しい、というのも事実です。どちらが良い、どちらが悪いという話ではなく、「アニメもいいけど漫画もいいよね」といったような話です。

特にオイラはその「余白」によって生まれる「文脈」を読み取るのが好きだったので、特にそう思います。


まぁ今でも、「余白」と「文脈」を楽しむようなゲームはいっぱいありますけどね。

「風ノ旅ビト」や「人喰いの大鷲トリコ」などはその代表格ですね。「彼らがなぜそうなっており、なぜそれをするのか」はほぼ完全に「空白」となっている。ただ、ゲーム内に登場する様々な要素からそれを憶測する。

「人喰いの大鷲トリコ」を製作したgenDESIGNさんはそこら辺とても上手いですね。監督の上田文人さん処女作である「ICO」はその空白から1つの小説作品が宮部みゆきさんの手によって生まれていますからね。もしゲーム内で全て語られていたら、このゲームに余白がなければ、この小説は生まれなかったわけです。

個人的には、そんな「余白を楽しむゲーム」がいつまでも生まれ続けてくれればいいなあ、と思います。インディーズゲームを見ている限り、その心配はなさそうですが。

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