思い込みを事実だと誤認してしまうことを人類は何千・何万年かけてやってきた。
「思い込みを事実だと信じこんでしまうことは、そこまで珍しい事象じゃない」という話をします。
オイラは自分自身を「とても透明性が高い人間」だと思っています。ブログやTwitter、それに実生活上でも、自分の考えをそのまんま伝えることを行っているからです。
嘘をつくのって、結構疲れるのですよ。その嘘に矛盾を生じさせないように色んな行動に「整合性を確認する思考」というものを挟まないといけなくなる。嘘の規模が大きいほど、色んな行動に制限のようなものがかかるわけです。
たとえば、「私は全ての人間は素晴らしいと思っています」という嘘をついたとすると、それ以降、表立って誰かを「あいつはダメだ」と言うことができなくなるわけです。そこの矛盾がバレると、「あいつの言っていることは信頼できない」という、オオカミ少年への道を歩んでしまうからです。
一方、「嘘がない人生」を送ると、そーいう制限が全くなくなるのですよ。だから、あらゆる体験に対して素直な反応をできるし、感情移入もしやすいのですよ。
以上から、オイラは「嘘をつくこと」はとてもリスクが高いことだと思っているので、嘘はつかないです。事実誤認をしていて結果的に嘘になっちゃった、ということはありますが、少なくとも自分の気持ちに嘘はつかないです。
ところがですね。
人って「行動から相手の気持ちを勝手に事実だと思い込む」ということをやりがちなのですよ。
一番よく目にするのは、「あの人はあんな行動を取っているから、あの人のことを好き or 嫌いなんだろう」という思い込みです。
この思い込みを「推測」だと認識した上で行動するなら問題はないです。推測のもとに行動するなら、間違っていたときに「あ、オイラの推測は的外れだったんだな」という認識の改善もできるし、「間違っているかもしれない」と認識できていれば、変に思い切った行動には出ることもないからです。
ところが、こーいった推測を「事実」だと思い込んでしまうと問題です。間違っていることを正しいと思い込んでしまうことほど、怖いことはないからです。
たとえば、オイラは女友達と2人で飯食いにいくとか遊びにいくことを時々やります。オイラにとっては「友達がたまたま女だっただけ」でしかないのですが、周りから「付き合ってるんじゃないの」「一度くらいは好きだの何だのあったでしょ」とかよく言われます。
(もちろん、中には「それ、正解!」ってパターンもありますが、基本的に「あ、間違いですね」ということがほとんどです。)
で、そんなことを言われたときにオイラが否定すると、相手にとってそれが「嘘」になっちゃうのですよ。だって、相手は「オイラがその女の人のことを好きだ」という思い込みを「事実」だと信じているからです。
で、そーいう思い込みの激しい人のなかには変な干渉をしてくる人も多いので、最終的には迷惑な行動に出るのですよ。相手は「正しい」と思って行動しているのですが、オイラにとっては迷惑であり、オイラが迷惑そうな素振りをみせると、相手は「なんだよ嘘つき」と気分が悪くなる。
それは不幸な事件ですよね。
で、ここまでは「人の感情」の話をしましたが、実は「人の感情」以外でも、人間って思い込みを事実だと勘違いするのですよ。
そもそも人間の身体の仕組みにも「事実誤認する」という現象は発生しています。たとえば、「ブルーライトが目に移っているのだから、今は日中のはずだ」という勘違いを身体は起こしますよね。それで夜にスマホを見ても睡眠に入るためのホルモンが分泌されずに眠れなくなる。。これは、人間の身体が「夜なのにもかかわらず昼間だと事実誤認している」から起きているわけです。
さらに言えば、人間の文化というものは、何千年という年月をかけて、事実誤認という困った現象と戦いつづけています。
優秀な科学者たちも「天動説」とか「ヴィーガン健康説」とかをやらかし続けてきているわけです。かの有名なアインシュタインでさえ、「確率的な世界なんか存在しない」という思い込みを生涯していたりします(それは間違いだったと実験で証明されている)。
人類史に名を刻むレベルの天才でさえ、「思い込みによる事実誤認」はやらかしてしまうのです。そこらへんの路傍の石である凡人たちがやらかさないわけがない。もちろん、オイラも含めて。
だからこそ、オイラは「それは【事実】なのか」ということを重要視します。
今生きている世界において、「事実」は、99.9%くらい正しいと言えるからです。そこに人間の思考が混ざるたびに、正解率は文字通り半減していくと考えています。
きっとそのくらいがちょうどいいのです。きっと。