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生きるということは戦うということですよ。事実として。

今日は感覚的な話をします。

読んでくださる方の為になるようなことは一切書いていないです。


オイラは何をする時も、感覚的に「命を削っている」と思っています。明確に「今は命を削っているのだ!」と思っているわけではないのですが、心の奥底でそれを感じていて、多分それが行動の端々に見え隠れしています。

だから、時間を「無為」に使いたくはありません。仕事をするなら全力で仕事をするし、遊ぶなら全力で遊ぶ。ダラダラ過ごすなら全力でダラダラする。全ての行動は「意図的に」行なっている自覚があります。

時々、オイラの行動は他人から「ストイック」「すごい」などと評価されます。オイラはそんな意識はないです。ただ、何事も「やるならとことんやろうよ」と思っています。


そんな中、オイラが嫌いなのが、「中途半端な人」です。

「こーしたい」「あーしたい」と言葉では言うのに、目の前に散らばっている手札を何も切らないでいる人とか。

仕事の愚痴ばっかり一人前で、いざ自分の番になると「自分はダメだ」とか「君は強い」とか言う人とか。

どいつもこいつも覚悟が足んねーなあ、と思います。


この世界というのは「戦い」の世界だとオイラは思っています。

「得」「利益」の多くは、戦って勝ち取らなきゃいけないと思うのですよ。それは人と戦うのではなく、自分や自然環境やその他の様々な物・現象との戦いです。なぜなら、放っておくと私たちは「淘汰されてしまう」からです。

雨が降っている時に傘をさしたり屋根のある場所に留まるのも、「雨」という現象に抵抗して戦いを挑み、「濡れない」「冷えない」という利益を勝ち取っているわけです。食事だって、人類がその他大勢と戦いを挑み、勝ち取っているから得られているわけです。

これはオイラがそう考えているというハナシではなく、放っておけば不利益が被る現状から利益を勝ち取っている、という「事実」です。「戦う」ということはそーいうことです。

そーいう意味で、「あーしたい」「こーしたい」とは、戦う意思表明に近いのですよ。「私はこーいう利益を勝ち取りたい」「こーいう不利益を排除したい」という戦いを挑みたい、ということなのですよ。

戦いを挑み、勝ちをもぎ取りたいのなら、大小はあれど、「覚悟」は必要です。

それなのに、「あーしたい」「こーしたい」「こーすべきだ」などということは一人前に並べ立てるのに、いざ戦いが始らんとした時に言い訳を述べたり、戦っているフリだけしてやり過ごそうとする。それで負けた時に「相手が強すぎた」「自分が未熟だった」などと並べ立てて自分を慰める。

そんな人たちはオイラは嫌いです。


オイラは別に「みんなもっと頑張れよ」と言うつもりはありません。頑張りたくない、努力したくない、なんとなく日々を生きたい。それで結構。生きているだけで素晴らしいでしょう。

でも、頑張らない、努力しないという選択肢を取るのなら、それによって受ける不幸、不利益をしっかり受け止めろよ、と思います。そーいう不利益を受け取ることを認識した上で努力しないというのなら、それもまた「覚悟ある行動」だとオイラは思います。

でも、頑張りたくない、努力もしたくないけど、現状の不利益に愚痴をこぼして賢いフリをするのは意識として未熟すぎるとオイラは思います。オイラの見えない範囲なら好きにしたらいいと思うのですが、オイラの人生には登場して欲しくないです。


オイラはやるならとことんやりたいです。「あーしたい」ならそれを実現する為に戦略を立て、布石を打ち、勝ちをもぎ取るために必死になります。それが、「ダラダラしたい」とか「旅行に行きたい」であっても。自分の勝ち取りたいゴールは何かを明確化し、そのために布石を打ち続けて王手を目指します。

「生きる」ということはそーいうことだと思うのですがね。猫だって、自分の幸せを阻害して来ようものなら巨大な人間であっても引っ掻いて攻撃してくるでしょう。犬も健気に吠えて威嚇し、噛み付いてくるでしょう。

そーいうものだと思うのですがね。現代の日本にいると牙が抜けてしまうのですかね。