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全ての情報はウソの可能性を秘めているのです

昔から「ウソをウソと見抜けない人はインターネットに向いていない」という言葉があるけれど、基本的にインターネット上の情報って嘘があることが多いんですね。正確に言えば「事実じゃないこと」が多いんです。

情報の質をはかる基準として「一次情報か否か」というところがあります。要するに「その情報源である事実(=データ)と発信者がイコールであること」が「一次情報である」ということなんですね。

なんで「一次情報かどうか」が重要なのかというと、伝言ゲームが発生するからです。

情報は人を介すると削ぎ落ちたり歪んだりしてしまうんですよ。なので、もし正しい情報をちゃんと見つけたいなら、なるだけ人を介さないで手に入れることが大事なんです。

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で、インターネット上のほとんどの情報って「一次情報じゃない」んですね。言ってしまえば「情報の紹介」がほとんどなんですよ。観測者が情報発信をしていることってめちゃめちゃ少ない。

しかもインターネットってウソをついた場合のリスクがめちゃくちゃ少ないんです。匿名性は高いし、修正が効くことも多い。その結果、「そもそも情報源が事実じゃない」というような情報が多いんですよ。「ぼくがかんがえたさいきょうのけんこうほう」みたいなのがめちゃくちゃ多い。

さらに困ったことに、大衆は事実よりも耳ざわりの良い言葉のほうが好きなんですよ。事実ってのは割と残酷なことが多いので、そんな残酷な事実よりも耳ざわりの良いウソのほうが広まりやすいんですよ。

そんな結果、インターネット上はウソで溢れかえってるんですね。

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科学論文って「一次情報」であり、なおかつ「ウソをつくリスクがめちゃくちゃ高い」んですよ。研究者が自分で実験をしたりデータを集めて分析したりして得た新たな情報を、その研究者自身が発表しているんですよ。しかも嘘をつくリスクがめちゃくちゃでかい(研究者生命が絶たれる)。

だから、とても高い確率で「事実」なんですよ。

それでも「ウソ」である可能性はあるし、「事実」だったものがいつしか「ウソ」になることもあるので、批判的吟味を以って接するべきではあるんですが。あと人間世界って単純なものでもないので、相反する2つがどっちも「事実」だった、みたいなこともあるわけです。

(光は「波」であり「粒子」である、みたいなのとか正しくそうですよね。)

だから「客観的なデータ」を「主観的なデータ」に落とし込む……つまりは自分で試すのがめちゃくちゃ大事です。(そしてここをすっ飛ばす人も多いです。)

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世の中って、こーいう「情報」の性質や扱い方を知らなかったり、意識していなかったり、忘れてしまったりする人が割と多いです。少なくとも私の観察範囲ではめちゃくちゃ多いです。主観ですが、「俺は賢い」「俺は大丈夫」と思っている人ほど、こーいう傾向が強いように思います。

知的謙遜がない人って油断しちゃうんですよ。でも情報が氾濫する現代で、情報に対して油断するのってダメなんですよ。新聞もテレビも政治家も官僚も、なにもかもがウソをつく今の時代で、情報に対して油断するって即敗北ですからね。(もちろん、ウソをウソと見抜けずに吹聴してしまう人も含めて。)

なので、「この情報はほんまけ?」と疑うことって、情報氾濫社会においては大前提のスキルだと私は思うのですが、同時に人間はウソへの耐性がまったくないので、ほとんどの人が持ち合わせていないのです。自然界では全てが一次情報ですし、実験でも認知バイアスの1つとして確認されています。

だからこそ、「それほんまけ?」と疑うことができるようになり、さらにそれを意識し続けられるようになると、めちゃくちゃ優位に立てます。おすすめです。