フリートークでおハナシ〜こころの香り〜
まいど、いおりんでござい。
最近あんまりエントリを書いてなかったですね。なんか最近、思考が極まってきていて。私の考え方の中で尖っている部分がますます尖ってきてて、「これ文章にしたら私の人格が疑われるんじゃねーかな」とかそーいう領域の言葉ばっかり出てこなくなっちゃって。
まぁでも何か書かなきゃな、ってことで今回はフリートークとさせていただきながら、極端なことを言います。
さて。
最近はなんか、人生が途轍もなく無味乾燥なものに感じることがあるんだよね。
私の人生観の根底にあるのは、「世界は残酷」ってことなんだよ。どーいうことかと言いますと、単純に「世界は物理法則に従って動いているだけで意思も意味もない」ということでね。これは「考え方の違い」とか「捉え方次第」とかいう領域の話じゃなくて、「事実」なんだよ。神も仏もいないし、世界に意思はないの。この世界には。
それどころか、他人のこころの存在すら私は確信を持てないわけで。もしかしたら私以外の全員は「こころ」なんてモノを持ち合わせていないかもしれない。それを確かめる術を私たちは未来永劫持ちえない。それは事実でしょ。確かめようがないんだから。
でもね。だからと言って「人間と接していても意味がない」とかじゃなくって。むしろ、そんな風に「こころ」を疑わなくても済むくらい、人と接していたい、という気持ちがあって。存在を確かめられないからと言って存在を否定するんじゃなくって、存在を確かめられないからこそ、その存在を感じられる体験を私は求めてるのね。こころは見えないけれども、こころの香りは感じられるわけで。
例えば私たちは犬や猫に対して「こいつにこころはあるのか」なんて疑問を持たないじゃん。持ってないかもしれないけど、かわいがるでしょ。それは彼らが必死に生きてて、こころがめちゃんこ強い香りを持ってるからじゃねーかな。「あいつら、実はロボットかも」とは思わんでしょ。
人間も一緒でさ。一生懸命生きてたり、一生懸命接してくれる人ってのはそれだけこころが香りを出してくる。接した時に強くこころを感じさせてくれるような人が私は大好きだ。友達も恋人も居酒屋のバイトも。接する度に強くこころを感じさせてくれれば、私だってより深く接したくなる。何度も会いたくなる。
逆に、こっちが接しようとすると警戒されてこころが遠のいてしまう人はとても苦手だ。こちらが手を伸ばしても向こうが離れるならその人とは仲良くなれないし、こころの存在も疑ってしまう。
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私、小さいころからこーいうことを考える子どもだったんだけれども、「他人のこころを確かめる術は絶対ない」って知ったときに絶望したよね。あんなに仲良しの田上くん(仮名)だってこころがない存在かもしれない、っていう事実を知ったときの絶望ったらなかった。
でも、それは「わからない」という状態でしかないから、それなら、精一杯こころの香りを感じて、「こころはきっとあるんだ」と思い込める状態に自分を置きたいのさ。それが孤独から抜け出す方法なのかも、とね。
さて。
こんなハナシをして大丈夫なのか…?という気はしてるけれども、まぁ仕方ないよね。そう考えてるんだもの。賽は投げちゃおう。
ばいびー☆