人生に意味なんて与えられないからこそ、なんとなく生きることは許されない、ってハナシ。

まいど、いおりんでござい。

さて。

私は基本的に人生に意味なんてないと考えている。正確に言えば、人生に意味なんて与えられていない。少なくとも、私たちが生まれて生きることに何も意味は与えられていないし、生きていく理由だって与えられちゃいない。それは考え方というよりも、事実だと思う。

よく、「私にはやるべきことがある」だとか「今日という日にだって意味はあるはず」だとか言う人がいるけれど、私はそんなこと全然思わなくって。人生には意味も理由もないから何をしたっていいし、何をしなくたっていい。怠惰に生きようがどこで死のうが自由だ。

私たちの生は辞書で引ける以上の意味は与えられていない。

でもこれは別に、「俺もお前ら生きてる意味ねーよ」って言いたいわけじゃなくって、あくまで「客観的・絶対的な意味や理由はない」ってことで。逆に言えば、人生の意味とか理由なんてのは自分で勝手に付け放題、ってことなんだよね。

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かといって、「なんだ、私の人生の意味は私が決めていいんだ!ヒャッホウ!」ってすぐに自分の人生に意味をつけられる人間なんていないよね。もちろん私もそうで。

自分で何かに意味をつけるっていうのは、その物事について考えることに他ならない。ちょっとした洗脳に近い気もするよね。自分で自分の人生に意味をつけるってことは結局「私はなぜ生きるのか」に直結する。その答えに簡単には辿り着けないよ。もちろんそーだ。

かと言って、自分の人生の意味付けを諦めることはできない。もし自分で自分の人生の意味付けを諦めてしまえば、客観的にも主観的にも、私の人生から意味が失われてしまうからね。人生に意味付けできるのが私しかいない状態で、私がその意味付けを放棄してしまったら、本当に私の人生に意味がなくなってしまう。

「生まれてくることに意味なんて与えられない」と言うと、まるで人生を諦めているかのように見える。だから「人生に意味なんてないよ」って言うと、なんてこと言うんだ、といった感じに見られてしまうこともある。

でもね、人生に意味なんてないからこそ、なんとなく生きることなんて許されないんだ。なんとなく生きた瞬間に、私が生きる意味が、生きる理由がなくなってしまうから。

だから、毎日一生懸命生きて、毎日精一杯楽しむ。自分が会いたい人とだけ会い、やりたいことだけやる、という人生を送れるように、精一杯生きる。自分が「これは今日まで生きてきた意味あったな」と日々、思えるためにね。

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これ、実は今日、友人と話しながら気付いたことです。今までも「人生に与えられた意味なんてねーよな」と思いながらも、「じゃあなんで私はなんとなく生きるのが耐えられないんだ?」とずーっと謎だった。

結局私は意味のない人生には耐えられなくって、それを避けるためには自分で意味を考えてつけていくしかない、ってことだったんだな。

ばいびー☆

静かな山奥に小屋を持ちたい。

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