「親しみのある人」とスゴイ近い位置にある「都合の良い人」のハナシ。

まいど、いおりんでござい。

先月12月〜1月にちょっと頑張ったので、2月下旬〜3月は休息している。フリーになった特権だ。

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1年間ほどフリーで動いていて、いくつか仕事をさせて頂いて学んだことがある。

それは、先日観た映画の中にもあったんだけど、「人は事実に基づいた人と取引するのではなく、親しみのある人と取引をする」というところだ。

私はどちらかというと親しみのない側の人間だと思っているので、これにとっても苦労する。私のことを知ってくれれば楽しい人間だと思うんだけれど、多分、一見さんは私を見てちょっと訝しむと思う。正直に言うけれど、私は「ズレている」。

だから時々、「親しみが持てる」という才能を持つ人を羨ましく思うんだけれど、まぁ羨ましがってばかりいても詮無いので、「どうすれば良いか」を日々考えているわけだよ。

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私の本能に従えば、実は「事実に基づいた人より親しみのある人と取引をする」というのは簡単に承服できない事実だ。

言い換えてしまえば、「事実に基づいているが親しみのない人」と「親しみはあるが事実に基づいていない人」がいた場合、多くの人は後者…つまり「親しみはあるが事実に基づいていない人」を選ぶということだからだ。多くの詐欺が、誤りを親しみで包み込んで売りつけて成立しているのがその証拠。

私はどちらかといえば「事実」を重視したがる人間だ。現実を見ない理想論とか事実と乖離した論理とかはあまり好きじゃない。だから、全く事実に基づいていないけれども、なんか接しやすい、親しみやすいという理由だけで誤った選択肢を選んでしまう人を理解できない。

それこそ私自身が一見さんには親しみにくい人間だからこそ、親しみを信じきれないのかもしれないけれど。

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さて。

この「親しみ」が時には時に怖いモノになっている気がする。

コミュニケーション能力だとか誠意だとかいう言葉に置き換えられて、気付けば「誰かにとって都合の良い人間であること」が「親しみのある人間であること」の条件になっている時がある。

つまり、「一生懸命お願いすれば、ピンチの時には無理してでも助けてくれる」ということは、親しみのある人間か。それとも都合の良い人間か。ということだ。

フリーとして働いていると時々、「あっ、私のことを都合の良い人間として扱おうとしているな」と感じることがある。都合の良い言葉や耳障りの良い言葉、正しそうな言葉を使って私に無理をさせようとしている、と。仕事の領域を超越した依頼を「親しみ」という柔らかいモノで包み込んで私に投げつけようとしている、と。

そんなくそったれな「親しみ」なら無い方がいいと私は思う。

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もちろん、「親しみ」を軽視するわけじゃない。実際に「人は事実に基づいた人とではなく、親しみのある人と取引をしたがる」という事実があるし、「親しみ」を持って仕事をしたほうが楽しいのも確かだ。

ただ、時に「親しみのような何か」があらわれて、私たちの人生を食いつぶすことがあることは、忘れてはいけないと思う。

ばいびー☆

おかゆが食べたくなる季節ですね。

おかゆが食べたくなる季節ですね。