恋愛的な「好き」はあとから気付くモノで、最初っから期待しても分かりっこないでしょ、ってハナシ。
まいど、いおりんでござい。映画を観る前のひとときで筆をとっております。
先日、友人から「いおりんって、恋愛観とかそーいうのはブログに書かへんよな」と言われたので、今日はそれ関連を書いてみる。
私は今26歳なんだけれど、日常トークの中にちらほらと「結婚」という話題が出てくるようになってきた。私の親友の1人が結婚したし、ほかにも結婚する知り合いが増えてきた。
それに合わせて、「あたいなんて、恋人もできないのに」なーんて言葉も出てくる。
社会人になると、学生時代よりも「友人」はできづらいし、「恋人」もできづらいと思う。自分からアクションを起こさないと、新しい人と知り合いになることってできないんだよね。だからか、なんか異性に対していきなり「恋人候補」として接しようとしてる人が多い気がするよね。ご飯とか飲みとか行くときも、いきなりお互いを「恋人候補」として様子を見ながら接する。
いおりんはここにすごい違和感を感じるんだよね。というか、いきなり誰かの人生に「恋人候補」として出てくることとか、いきなり誰かを「恋人候補」として見るのとかって、めちゃくちゃ厳しくない?
この辺りは下記の文章で面白おかしく詳しく文章化されているんで、興味があればどーぞ。効率性で考えたときの私の考えは全部言ってくれてる。
参考: 「恋人候補」として誰かの人生に登場しなくてはならない合コンとか婚活とか俺はキツい – ←ズイショ→
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私の中ではまず、「惚れる」と「好きになる」は明確に違ってます。
例えば一目惚れとかって言うけれど、「惚れるっていうのは本能の部分で「この子、良い!」ってピーン!と来るところだと思ってて。この観点で言えば、私はとても惚れやすい人だと思う。女性なんてのは笑ってるだけで素敵すぎるからね。すぐ「えっ、かわいっ」ってなるよ。
でもそれで「好き」にはならんです。「あの子かわいーね」とか、もっと俗っぽい言い方をすれば、「あの子を抱きたい」でしかないよね。
私にとって「惚れる」ってのは瞬間的なモノなんだよ。「〜〜する」っていう行動だからね。長続きしない。その代わり、何度でも訪れるけれど。
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じゃー「好きになる」ってのは何よ?っていうと、私は仲良くなっていくなかで「好き」にあとから気付くことだと思ってる。
例えば飯を食いに行ったり、遊びに行ったり、友だちとして仲良くする中で、「この仲良さだったら恋人としてもいけんじゃない?」とか「この人のこの感じ、恋人だとしても好きになれそう」みたいに気付くこと。これがいわゆる恋愛の始まりなんじゃないの。
それを、いきなり「恋人としてどーなのか」っていうメガネをかけがながら飯に行ったり遊びに行ったりするのは、なんか違うんじゃないの、と。互いにハードルを高くしちゃうし、仲良くなりながら気付くことなのに、仲良くなってない時から「互いに好きになるかどーか」とか分かるわけないじゃん。
そもそも、飯に行くのも遊びに行くのも、同性の友人とだったら普通にやるでしょ。同性の友人にできることを異性に対してやっても、それは「仲良くなるためのコミュニケーション」でしかないよ。
はじめっから期待するんじゃなくって、飯だの遊びだの、仲良くなるためのコミュニケーションをしながら、「好き」にあとから気付いて「恋愛」の状態に遷移することが、「好きになる」であり、これが恋愛のスタートだと思ってます。
仲良くなる前から「恋愛相手としてどーか」とか考えるのは、そもそも恋愛以前の問題だと思います。そーいうところで悩んでいる人には「いーから仲良くなれって」としか言えないよね。
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よくある「異性と友だちでいられるか」って、「惚れる」と「好きになる」を切り分けられる性格かどーか、ってところがポイントなんじゃないかな。
私は「惚れる」と「好きになる」が分かれているので、女性とも問題なく友だちになれる。「えっ、かわいっ」って思っても好きにならないから。でも、この2つが直結してると、異性と友だちになるのは無理だよ。女性は笑うだけで「えっ、かわいっ」って男を惚れさせる最強スキルがあるので。セコイ。
ばいびー☆