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Stay Gold, Ponyboy.

世界はまだまだ「ふつうではない人」にとっては住みづらい、ってハナシ 〜「イミテーション・ゲーム」を観て〜

まいど、いおりんでござい〜。

現在、私は関西に帰郷中です。母校の大学で大学祭があったので、それをきっかけにお世話になった教授さんに会いに行ったり、関西に集った友人らと奈良公園の紅葉へ行ったりしました。

いや〜。奈良、いいとこですね!和歌山も、いいとこですね!

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さて。先日、映画「イミテーション・ゲーム」を観ました。

これは、アラン・チューリング 1という数学者の話です。

一般的には第二次世界大戦時に、ドイツ軍の暗号機「エニグマ」を解読した偉人として知っている人も少なくないんじゃないかな。この映画では、そのエニグマ解読の場面をメインに取り扱って、チューリングの半生を描いている。

戦前すでに秀逸な論文を数多く残し、戦時中にエニグマ解読に大きく貢献した。しかしその業績は軍事機密事項として秘匿され、同性愛者として裁かれて名誉ある地位を剥奪されて、最終的に自殺する。そんな彼の反省を描いた本作。とても考えさせられました。

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チューリングさんはアスペルガー症候群ではなかったのか、と言われており、劇中ではそのように扱われている。

劇中での彼は他人の裏の気持ちなどを考えることができない。言葉の裏を読み取ることや、相手の感情を考えた発言をすることができない。論理的には正しい発言をしていながらも、他人のことを考えることができていないばかりに、エニグマ解読チーム内でも孤立し、解読後も孤立してしまう。

この映画でのチューリングを観ていて、私は「あれ、私にもこんな部分がないかな」と感じていた。「ふつうじゃない人」という視点において、劇中のチューリングに共感してしまった。

私も実は他人の感情に対して共感することとかはとっても苦手だ。気心知れた友人ならまだしも、初対面の人とか飲み会で会っただけの人とかと共感するのは苦手だ。きっと、私がよく「変な人間」だと評価される要因はここにあるんじゃないかと感じる。

チューリングさんが劇中で度々体験する、「自分の発言で周りが困惑する」といった事態は私もよく経験してきた。経験し過ぎてもう悩みという認識すらないんだけれど。

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劇中では「ふつう」という単語が度々用いられる。

思えば私も「ふつう」と言われた記憶はない。小学校から高校まで、三者面談で担任の先生に必ず「個性的」「独創的」と言われ続けてきた。今でも、私のことを「ふつう」だと言う人はいない。というか、全てのコミュニティで「イオリンはふつうじゃない」と言われ続けてきた。

私自身、言われ続けてきたから自分がどれだけマイノリティな人間なのかは理解している。それでも、昔は「ふつう」にとっても憧れた。

私は大勢が集まる場所では楽しめないし、飲み会や交流会などで新しい友人を作ることだって少ない。上手い冗談も言えないし、人気者にはなれない。趣味も人と合うことは滅多にないね。私が楽しいと思ったことを他人が楽しいと思ってくれることも少ない。私にとって、「ふつう」というものは理解できないことなんだ 2

私が「ふつう」ではないから、コミュニティ内で迫害されたことだってある。

劇中では、チューリングの子ども時代も描かれていた。友人からいじめられていた過去が描かれていたが、そこにすら私は共感を覚えた。

チューリング
「僕のほうが頭がいいからやられる。」
友人
「いや、君が人と違うからだ。」

このシーンは特に私に過去を思い浮かばせた。

私も子どもの頃は「私はあいつらとは頭の出来が違う。」と考えていた。自慢みたいになるからあまり言わないんだけど、昔は他の人よりも少ない時間で他の人より多くのことを理解できた(そのせいでサボり癖がついてしまうんだけれど)。テストで私を迫害するやつらに負けたことはほとんどなかった。

だから、「私のほうが賢いから、あいつらが僻んでいるんだ」と考えていた。そして、友人から同じように「お前が人と違うからだ」を言われたこともあった。

子どもの頃は、どれだけ「ふつう」が羨ましかったか。私が「ふつう」に振る舞えれば、もっと人生は素晴らしかったんじゃないか、とね。

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誤解のないように言っておくけれど、今では「ふつう」ではないことを恥じることなんてない。むしろ誇りに思っている。「欠点は個性だ」と気付いてから、私は自分のふつうではないところが好きになった。

また、私にも仲の良い友人はたくさんいる。そんな彼等には、本当に心から感謝している。

私がチューリング氏ほどの極端な「ふつうではない人」ではなかったから克服できた、というのもあるだろう。

今でも時々、私は笑いモノにされるし、私のことが理解されないことだって多い。世の中は…いや、自分のことを「ふつう」だと思っている人々は、「ふつうじゃない人」に対しては嘲笑するか引き離すか…まあ何にせよ、壁を作るんだよ。その壁が私にはとてもよく見える。

世界は多様性を認める方向に進んでいるけれど、それでも「ふつうではない人」にとっては、住みづらい。私は「欠点は個性」といった言葉たちに救われたけど、逆に言えばこーいう、何かしらの「悟り」のようなものを見つけられないと住みづらいんだ。世界はまだまだ、住みづらい。

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私にとって、この「イミテーション・ゲーム」は、英雄・偉人を一人の人間として描いた作品であると同時に「ふつうではない人」に焦点をあてた作品だとも感じた。私は他の多くの人と違うことが多いから、そこに孤独を感じることだってある。

劇中でチューリングが「一人になりたくない」と思いながら取り乱していたあの姿は、もしかしたら私の未来の姿なのかもしれない。

「あなたがふつうじゃないから、世界を平和にできた」というメッセージは、私にはとても素敵に見えた。私にも、何か成し遂げられるだろうか。もしそうなら、私の大好きな人たちに対して住みやすい世界を提供できればな、と思う。

ばいびー☆

自然の中にいるほうが落ち着くイオリン。
自然の中にいるほうが落ち着くイオリン。

Notes:

  1. アラン・チューリングと言えば、情報技術を学んだことがある人なら一度は聞いたことがあるよーな有名人。チューリングさんが考案した「チューリング・マシン」は現在の計算機・コンピュータの基礎となっている。チューリングのことを「コンピュータの父」と呼ぶ人もいるくらい。

    さらに人工知能分野において、「チューリング・テスト」というテストを提唱している。これは、「人工知能が人間のように考える知能を持っているのか」ということを判断するテストで、「イミテーション・ゲーム」とも呼ばれる。

    参考: http://www.h5.dion.ne.jp/~terun/doc/chu.html

  2. 「社会人らしく」とか「常識的に」とかいう単語が無意味に感じるのは、そもそも「ふつう」が理解できないことが原因な気もするね。社会人らしくとか意味分からない。

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