何かを考える上で公平であるべきとか無理、ってハナシ。
まいど、いおりんでござい。
私はこのブログでは色んな考えを発信している。その上で気をつけていることとして、「変に公平さを持たない」ということがある。
というのも、そもそも誰かが何かについて考えて意見を持つときに「公平である」とかあり得ないし、「公平であるべき」ということを重視し過ぎたような思考は退屈だからだ。
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考えるよりも前の部分…すなわち、テーマについて「知る」、という時点で「公平さ」というのを意識するのはめちゃめちゃ重要だと思う。
偏り過ぎたデータを集めるとリアリティのある思考ができなくなる。だから、公平で恣意性の少ないデータを調べたり、多くの情報源を持つことで「公平にテーマについて知る」というのはとっても重要だと思う。
例えば「日本における集団的自衛権の是非」について私が考えたとき、世の中には賛否両論が渦巻いていたが、その多くは持っているデータが偏っていた。メリットとなる情報しか持っていなかったり、デメリットとなる情報しか持っていなかったり。それでは、そもそも事実について正確な把握ができない。
「知る」という行為においては、公平にデータを集めて事実を把握することはとっても重要なんだ。テーマについて正確に把握することで、思考の質もあがっていく。
だが、知る段階を終え、考える段階に入ったときには、「公平さ」を一旦側に置いておいたほうがいい。
そもそも、何かしらの事実について、自分が元から持っていた人生経験とか知識・知恵をブレンドして吐き出すのが「考える」という行為でしょ。そこに公平さを持ち出すのはお門違いだ。
だから、「公平に考えて意見しなよ」とか「客観性が欠けた考え方」というのは矛盾している。公平さや客観性が求められるのは知識だ。思考じゃない。
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考える行為に公平やら客観性やらを持ち出す人間はよく、「○という意見と×という意見、両方あるよね」ということを言い出す。こーいう人はそもそも思考を放棄している。テーマに対して白旗をあげて「お手上げ!考えない!」って言ってるのと同じだ。
多くの考える価値があるテーマにおいて、「○という意見と×という意見、どちらとも言える」とか当たり前だ。その上で君は○と×、どっちだと考えるの?っていうのが「自分で考える」ということだ。
それなのに、「○でもあるし×でもあるから決めつけはよくないよ」とか、的外れすぎ。それは公平とかじゃなくて、考えていないだけ、もしくは決断力がないだけです。誰でも言えるでしょ。
でも、世の中にはこーいう意見が正しいと思われる風潮もあって、ほんとアホらしいです。
- テロは誰かにとっては正しいし、誰かにとっては間違っている。
- 大阪都構想は得する人もいれば損する人もいる。
- 集団的自衛権は良い場面もあれば悪い場面もある。
- 大手企業にだって良い会社もあれば悪い会社もある。
- 大学に行くべき人もいるし行かなくていい人もいる。
当たり前ですよね。これって、
- ジャンケンではグーを出すと勝つときもあれば負けるときもある。
- 明日は晴れるかもしれないし雨が降るかもしれない。
って言ってンのと同じレベルだよ。そんなの考えなくても分かるでしょ。
その上で、「それでも私は○○だと考えるから、テロは間違っている」「その上で××が重要だから、大阪都構想は得すると私は思う」っていう段階まで行くのが考えるってことです。
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イオリンは時々、反対意見があるのを承知でわざと強烈に書く。一種のポジショントークをする。それは、そちらのほうが伝えたいメッセージが伝わるときもあるし、中途半端なことを書くと誰にも何も刺さらない、思考としての意味をなさないモノになるからだ。
「公平に考える」というのは、「事実を公平に把握してから考える」ってことなのだ。
ばいびー☆