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いおりんがフリーランスになるまでのハナシ。Vol.3 〜人の心は過労になると〜

まいど、いおりんでござい。行きつけの作業場所が定休日で、茅ヶ崎を彷徨ってしまいました。あっはっは。

さて。ここまで、「前職の会社に入社してから退職するまでのいきさつ」を書いたネ。

1回目: いおりんがフリーランスになるまでのハナシ。Vol.1 〜ベンチャー企業に入社して〜 | イオリン手記
2回目: いおりんがフリーランスになるまでのハナシ。Vol.2 〜大炎上案件時代〜 | イオリン手記

2014年10月に一先ずリリースさせて一段落した頃、イオリンは精神科医に診てもらった。

実は2014年4月くらいからずーーっと、「イオリンは一回診てもらったほうがいい」と同じ開発チームメンバーから言われていた。そして実際に診てもらって、「あー、うつですね。よくありますよIT業界では」なんつー雑な診断を受けた。

関連: I Went to the “You Mental Clinic” | イオリン手記

(ここでは「ふつーにいいところ」と言ってるけど、少なくとも私を診た精神科医は超テキトーだった。精神科医の仕組み化についてはよくできてます。)

さて。今回は私がうつと診断されるまでの心境の変化について書いてみます。

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私は元々、「不安恐怖症」だ。人生において不安が大嫌いなので、常に不安を減らし続ける人生を歩んでいる。

だから何に挑むにも基本的に「不安を打ち消すために計画を練る」というのがクセになっている。常にアタマを使って考え続けるのも、人生において不安を持たないようするためだ。準備こそが勝負を分ける。物事に実際に取り掛かる時には何も不安なく勝負を決めれるくらいでいるべきだと考えている。

関連: 「どうしたらいいんだろう」の答えは大抵「まず考えろ」に尽きるってハナシ。 | イオリン手記

さて、そんな私だが、2014年に入ってからの仕事は、とにかく不安しかなかった。「私が一度トチれば問題に繋がる」という状態だったし、そーじゃなくても、「私の知らないところで問題が発生して、そのしわ寄せが自分に来る」という現象が頻発していた。

先日も書いたけれど、人の入れ替わりが激しい上に引き継ぎが上手くなされていなかったせいで、全く未知の内容に関するクレームがお客さんから来ることもあった。社用の電話を持たされていたけれど、そこにいつどんな電話が来るかわからないんだ。

常に「今日が無事終わるのか」という不安にかられていたよ。

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よく「過労の人は休めばいいのに」とかか言う人がいるよね。私も軽々しく言ってしまうこともあったけれど、それはあまり効果がないんだ。

なぜなら、人は過労でいると思考の幅がどんどん狭まってしまうからだ。仕事以外のことを考えている余裕がなくなってしまう。過労に陥っている人は栄養不足や睡眠不足に陥っていたりストレス過多だったりで、そもそもの思考力が落ちている。さらに、その思考の全てを「目の前の仕事を片づけること」に注ぐようになってしまう。

少なくとも私はそうだった。働きづめだった頃は、「この終わらない仕事をどうすればいいのか」ということをに頭が支配されていて、ほかのことを考える余裕はなかった。自分の人生とか体調管理とか休日の飲み会や恋人のスイートピーのことも、全てが「そんなことより」という言葉で排除されちゃう。

だって、「そんなことより、今日が無事に終わらないかも」という不安のほうが強過ぎるからネ。

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そして2014年4月くらいには頭痛や吐き気などがついてまわるようになった。いつまでも頭が冴えてしまって眠れない夜だって出てきた。そもそも物量的に「絶対無理でしょ」って量の仕事があり、さらに油断するとソレが増え続けるんだ。眠っている場合なんてないんじゃないか、という考えすら出てきていた。

そして2014年7月には、まっすぐ歩けないほどになっていた。体力の低下ももちろんだが、不安の量が私のキャパシティを越えていたからだ。明確に「このままじゃ倒れる」という道が見えた。その時になってはじめて、取締役にヘルプのメールを投げた。

この「取締役へのメール」もかなり迷った。自分の人生のことを考えれば当然の行動なんだけれど、当時の私にとって、「今日が無事に終わるか=仕事が進むか」ということが最重要事項だった。そして、取締役にメールしても仕事は終わらんでしょ、と考えていたんだ。

もちろん、まともな思考回路をしていないのは今ならよく分かる。でも過労の人がまともな思考回路なんてできるわけないでしょ?

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その後、救済措置として私の仕事は一時的に減ったけれど、結局戻った。というか仕事の量は変わってないので、私の中にある不安は消えなかった。私の不安を取り除くような調整も行われたが、結局「開発について一番知っているのは私」だったので、しわ寄せは私に来た。

(ちなみに上司からは、「その類の不安はあって当たり前。いずれ麻痺するから大丈夫」ということを言われていた。私にとっては何も大丈夫じゃないけど、当時は「そーなんだ」とまともに受け止めていた。何が正しいのかなんて考える余裕はなかった。)

2014年10月1日。案件はひとまずのリリースを迎えた。私の生活は正常に戻った。土日出勤はあったが、その代わり平日を2日休んでいいことになり週休2日は守られた。出勤日も、定時には基本的に帰ることができた。

そして私に正常な思考回路が戻りはじめた。

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まずはじめに「仕事以外の人生を楽しもう」という気持ちが戻った。

平日に休みがとれたので、カラオケに行ったり映画を観に行ったり、平日限定で得するようなランチに行ってみたり、新しいアルバムを買ってみたり。そーいうことをして、とにかく仕事以外のところで楽しみを取り戻していった。

思考回路がどんどん戻ってくると、「私、なんでこんな頑張って会社に尽くしてんだろ」という気持ちが出てきた。その感情は複雑だったね。怒りのような悲しみのような退屈さのような。とにかく、仕事をしているのがバカバカしくなった。過労の次はそのバカバカしさが休日も付きまとうようになった。

2014年10月15日。精神科医に行って、私は「うつ」と言われた。「IT業界によくある、ありふれたうつ」と言われた。薬をもらったその日に私は上司に「今日、薬をもらいました。私、明日から会社に行かないです。」と告げた。

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以上が、私が休職するまでの心境に注目した振り返りです。

ちなみに、私は絶対自殺なんてしないと強く思っていたけれど、自殺をする人の気持ちも少し理解できた。

というのも、きっと過労で自殺をする人も、「死にたい」なんて思っていなくって。でも、“そんなことより”この不安に解放される手段として「電車に飛び込む」という選択肢が出てきちゃうんだ。仕事から逃げることを考える余裕がなくっても、毎日電車に乗っていれば飛び降り自殺の選択肢は出てくる。

私も「あぁ、私の左腕が捥げたり、ガンになったりすればこの不安から逃れられるのになぁ」と何度思ったことだろーか。今思い返せば酷い思考回路だけど、当時の私は本気でそう考えていた。

人は「不安」が強過ぎると、なによりもまず「不安」を取り除きたくなる。そして過労によって思考回路が奪われていると、その不安を取り除くための手段は直接的なモノばかりになってしまうんだ。ほかの欲望と一緒だよ。食欲だって危機に瀕すれば、「すぐに食べられるモノ」を求めるでしょ?

そーいえば小説家の乙一さんが自身の小説で、「頭をピストルで打ち抜いて自殺する人は死にたかったんじゃなくて、頭の中にある暗く重たい塊を取り除くために穴を空けたかっただけ」といったようなことを書いていた。その感じが今ではすごいわかるんだよね。

今日はこの辺で。次回は、「会社を辞めたとして、なぜフリーランスを選んだのか」みたいなことを振り返りマンモス。

ばいびー☆

都会の彼岸花も悪くないよ、と思ういおりん。
都会の彼岸花も悪くないよ、と思ういおりん。

続き: いおりんがフリーランスになるまでのハナシ。Vol.4 〜フリーを選んだ理由は〜 | イオリン手記

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