振り返り。2023年3月。
今のオイラは生活で何を取り戻そうとしているのか。
それについて少し書き記そうと思う。
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ここ最近、オイラは生活のバランスを崩しがちな感覚がある。
仕事に身を傾けすぎて、日々の生活の均衡が崩れてしまっているような。
誤解されないように最初に言っておくけれど、これは別に「会社が嫌い」とかそーいうハナシじゃない。恨み言や愚痴じゃなく客観的な事実として受け止めているハナシだ。
オイラはだんだん、仕事で接する「お金」の規模が大きくなっていて、それがバランスを崩している大きな原因だと思っている。
お金というのは、生活に密接に紐づいているけれど、日々の生活の実感を遠ざけるモノだ。日々のさまざまな物事を「価値」という概念に落とし込んでそれを平均化したものが「お金」。
「コーヒー」よりも「飲み物」のほうが普遍ではあるけれど実態からは遠い、といったようなもの。
「コーヒー」よりも「飲み物」のほうが普遍であるがゆえに不可欠。でも、オイラは実態を大切にするから、普遍的な概念である「お金」そのものにあまり意義を見出せない。
そして扱う規模が大きくなればなるほど、実態からは遠くなっていき、オイラの価値観からも遠ざかっていく。
だから、「扱うお金の規模を大きくしよう」というハナシには全く興味が持てない。
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今、オイラがいる会社は、規模が大きくなりつつある。それは素晴らしいことだと思う。そもそも会社の本分とはソレだし、扱っている商売もお金と密接に関わっているから、扱う「お金」の規模を大きくするのは完全に正しい。
でも、その正しい道と、オイラが大切にする道は、致命的なほど隔たりがある。
とはいえ、冒頭にも書いたけれど、これは会社がどーのとかいうハナシじゃない。資本主義とオイラの主義とのコンフリクト部分だと思う。仕事やキャリア形成がうまくいけば行くほど、自分の歩みたい道とは遠ざかる。
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オイラは人生で何度か、「出家」を考えたことがある。
世俗を捨て、修行に打ち込んで一生を終える。それはオイラの理想とする人生の1つではある。少なくとも社会で苦しみながら生きるよりもずっとずっと理想に近い。
ただ、オイラには正直、仏教などに対する信心はない。オイラにはオイラの死生観・世界観があり、仏教と通ずるところはあっても、致命的に違う部分もある。文化として興味はあっても、例えば心の底から葬式や読経をすることはできない。
そんな心で修行するのは失礼だな、と思って決断はしてない。また、現代の寺院では結局、お金からは離れられないような気もする。
武道を学ぼうと思ったこともある。
心身の反応と向き合って修行する。自身の限界を試したり、あるいは苦しみを受けて、そこに生の実感を得る。それはありのままに世界を受け止めることにとても近いんじゃないかと思う。
一方で現代社会ではほとんどの武道は「スポーツ」「エクササイズ」にとても近い。大勢で参加して、大会に出たり、なんだったりする。そーいう社会的な側面にオイラは興味がない。
そんな思いつきと諦めを繰り返した結果、「独学が一番理想」というのがオイラの結論だった。
1人で瞑想し、1人で木の棒を無心に振る。1人で学び、1人で感じ、1人で振り返る。それがオイラの理想に一番近い。
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だからこその「山林暮らしの夢」でもあった。
1人で、社会からは少し遠い場所で、自分の思う生活の追求・・・あるいは修行ができる場。社会とは無縁のように振る舞う犬猫鳥馬木々花々と暮らして一生をまっとうできる場。
満足に山林暮らしをするには結局、それだけの「お金」が必要になる。現代で生きる以上、完全に離れることはできない。
でも、なるだけ遠ざかることはできる。そのための軍資金稼ぎとしての仕事。オイラにとってそれ以上でもそれ以下でもない。
ただ、軍資金集めに躍起になってバランスを崩していたら本末転倒だから。今の日々の中でもバランスを崩さないようにしないといけない。
ここのバランス感覚がとても難しい。「やらなきゃ」と思わないままにやらなきゃいけない。逃れるために向き合わなきゃいけない。
ただ在る事。
それを取り戻すため。