「さらば」はどこからともなく降ってくる
「誰彼と仲よくても、いつかは遊べなくなる時が来るよね」という話を、します。
日記に近いですね!
オイラの好きな歌で、森山直太朗さんの「いつかさらばさ」という歌があります。夫婦の歌なのですが、「いつか、さらば、さ」という言葉を合言葉のようにしている、そんな夫婦です。いつかは「さらば」するのだから、それまで精一杯楽しもうよ、というような歌詞。
この「いつか さらば さ」という言葉は、オイラが普段からとても意識していることです。人は、命は絶対に燃え尽きて死ぬからです。構造上、命との「出会い」には必ず「別れ」があるのです。
オイラは以前から「30歳になったら犬を飼う」とか「保護猫を飼いたい」とか言っていた。単純に動物が好きだからです。今引っ越している物件も、「ペット可」にしました。
ところがぎっちょん、心のどこかで「あまり飼いたくないなあ」とも思っているのです。なぜなら、飼った犬や猫とは、いつか必ず死別するからです。ペットを飼うということは、「友を失う未来」を自らの手で引き寄せることになるのですよ。
「さらば」は何も死別に限ったことではありません。遠くに引っ越したり、ケンカしたり、子どもが生まれたり、フラれたり、クラス替えしたり、入院したり、転職したり。。。と、人生には「さらば」イベントが盛りだくさんです。
関係性の変化によっても「さらば」は訪れます。たとえば、毎週会って飲みに行っていた友人が結婚をして子どもを産むことで、全く飲みに行けなくなったり、毎日同じ帰り道を帰っていた友人が習い事を始めて一緒に帰れなくなったり。
とても細かい変化ではありますが、「毎週会っていた」「毎日会っていた」という関係性と「さらば」しているわけです。「なんか疎遠になる」という現象は、そーいった関係性の「さらば」です。
つまるところ、「さらば」とは悲劇的なイベントではなく、日常的なイベントなのですよ。最低でも「出会った人の数」だけ。「関係性のさらば」も含めれば、それ以上です。
なので、オイラは「さらば」があっても問題が起きないような人生の楽しみ方をしています。それは、「他人と会うこと」それ自体を非日常イベントとしているのです。誰かと一緒に何かをすることは「当たり前」ではなく「奇跡」だというラベルを貼っているのです。
「奇跡」をベースに日常を構成するのはとても不安定なので、オイラは「1人でも楽しい人生を」「友達と会えなくても楽しくすごせることを」と考えています。
とはいっても「さらば」がなんともないわけでもありません。
頻繁に会っていたり遊んでいたりした友達とそれができなくなることは悲しいですし、寂しいです。例えば今とても仲良くしている親友と「さらば」したら、オイラはとてもショックを受けるとは思います。できる限り避けたいことではあります。
でも、それは「必ず訪れるイベント」なのです。だってみんな絶対死ぬのですから。
そう捉えているので、「3日も経てば、もとどおり」でいられるように、その親友にも決して依存しません。3日くらい悲しんで、そのあとまた幸せな毎日を送れるように。