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Stay Gold, Ponyboy.

「生きていることに意味がない」「誰にも必要とされていない」という決して悲観的なだけではない事実のハナシ。

まいど、いおりんでござい。

今より2週間ほど前、私は生きる気力を完全に失ってしまいました。何がきっかけかを考えるのはとても難しいです。

私の中には元々2つの大きなネガティブ要因となる考え・意識が潜んでいます。それは、「生きていることに何の意味もない」「自分は誰からも求められていない」という2つです。


この2つを並べると、とんでもないネガティブで面倒くさい人間だな……と思われそうなものですが、基本的に私はこれら2つのことを悲観的に捉えてはいません。

少なくとも前者「生きていることに何の意味もない」ということに対しては一切、悲観的に思っていません。それは例えるなら「放り投げた物は地面に落ちてくる」ことを悲観的に捉えることがないのと同じで、私にとって生きていることに意味がないということは事実でしかないんです。

だからこの意味のない人生の中でなお私はなぜ生きるのか。イオリンの人生は常にそこと向き合いながら進んでいるといっても過言ではありません。その答えは時々によって変わるのですが、常にこの答えを追い求めて生きています。


さて、一方「自分は誰からも求められていない」についてですが、これはまぁなんなんですかね。おそらく歪んだ見方だということは自覚しています。ただ、私が歪んでいるからこんな考えになっているのか、本当に求められていないから歪んでしまったのか。私には少しわかりません。

これは裏を返せば、「私は誰かから求められたい」という自意識がすごく強い人間だということです。他の誰かではなく、「この私」を誰か求めて欲しい。そんなみじめな人間だということですね。

思えば私は昔から「人生における伴侶が欲しい」という夢を持っていました(高校生の頃から言い続けていた気がします)。別に恋だの愛だのセックスだのは副産物であり、私が求めているのは常に、「私を求めてくれる誰か」でした。自意識高いですよね。

でも、本当は「この人じゃないとダメ」なんて人間はいないんですよね。人はその役割に意味を見出すのであって、その人のアイデンティティに意味を見出すことはないのだと思います。

例えば私はFacebookが好きで、Facebookの生みの親であり運営者であるMark Zuckerbergさんが大好きですが、それもあくまでZuckerberg氏でなければないわけじゃなく、それをやってくれた人がたまたまZuckerberg氏であっただけなんですよ。

結婚とかもそうで。あなたの奥さんや旦那さんは、その人じゃなければいけないわけじゃなく、たまたまそのタイミングで隣にいてくれた人がその人だっただけなんですよ。語弊を恐れず言えば、「誰でも良い」んです。

究極を言えば親子だってそうです。私の母親から生まれたのがたまたま私だったから私があの家族で愛されていたわけで、例えば生まれてきたのが隣の子どもだったのなら、その子がきっと愛されていたでしょう。「この私」である必要はなかったのです。

そういう意味で、「自分は誰からも求められていない」ということが、そこまで悲観的な意味を持たずに、あくまで事実として私の中に転がっているのです。


とはいえ、これらが悲観的な意味合いを持たなくなるには随分長い時間がかかりました。

これら2つを受け止めながら、なお生きていくためには、私は私のためだけに生きていく必要があるのです。私だけが私の人生に意味を与えることができ、そして私だけが私を求めている。そのことを強く掲げて1日1日を強く踏みしだかないといけない。

そうすることでようやく、私の中に「生きる気力」が生まれるのです。

こうなれば正直、無敵に近いです。よく私は他人から「イオリンは人生を本当に楽しんでいるね」と言われるんですが、自分で自分の人生を盛り上げられるんですから、当然ですよね。永久機関みたいなものです。

ただ、とても必死です。油断すると折れてしまうからです。

特に危険なのが、私は「とても楽しいこと」が終わった後に反動が来て折れてしまうことがあります。思えば今回も知人を集めて旅行に行った次の日くらいに折れた気がします。


折れてしまうと、先ほどの2つが悲観的な意味合いを伴って一気に襲いかかってきます。そして一瞬にして私の生きる気力を奪い去ってしまうのです。

「生きている意味がないなら、なんで毎日頑張らないといけないんだろう。」

「誰からも求められていない人生ならば、これ以上ダラダラと生きてどうするんだろう」

こうなってしまうと、私の人生をつなぎとめているのはただの生物としても生存本能だけです。生物である以上、死は恐ろしいものですが、逆に言えばそれから逃げるだけの日々になってしまいます。


そして一度折れてしまうとなかなか修復できません。というか、こればかりは「時間」に身を任せるしかありません。その間は無防備な私が無防備なままもがきつづける日々です。

全てを投げ出したくなるし、その上誰かに求められたくなるし、もう本当自分でもなんて面倒くさい、なんだこいつは!みたいな自分になってしまいます。それはまるで中学生の頃の、思春期の私が蘇ったかのようです。お恥ずかしい。

そんな日々を数週間〜数ヶ月過ごしたあと、ようやく修復が完了して、またこの日本の足でなんとか立ち上がり、一歩ずつ踏み出していくことができるようになります。

私の人生は常にこうやって、強く生きている時期と、全てを投げ出したくなる時期とが繰り返し繰り返し、ぐるぐると回っているような感じです。

ただ、自分自身の中に留めておかないといけないのは、「本当の私は、全てを投げ出したくなっている方の自分だ」ということです。

強く生きている自分は、つまるところ逆説的に物事を捉えることで成り立っているのであり、私の根っこにあるのは、「なぜ意味もないのに」「なぜ誰からも求められていないのに」と考えている方です。逆に言えば、「意味のある人生でありたい」「誰かに求められる自分でいたい」と思い続けており、それを自分でお茶を濁しているのが今なのです。

果たしてそんなお茶を濁したまま生を続けていいのか。それにも迷い続けている日々であり、毎日が抜き差しならない現状です。


私の大好きなアーティストである森山直太朗さんと共作者である御徒町凧さんが作り上げた劇場公演「あの城」で、とても印象的なシーンがあります。

直太朗さん演じる「ナオタリオ」が、親友「ダン」に向けて放った言葉であり、直太朗さんと御徒町さんの考え方がよく現れている言葉だと思います。

「ダン、お前はいい友達だよ。だけど俺たち、本当は誰でも良かったんだよ。だからこそ、尊いと思わないか。」

引用元: 森山直太朗劇場公演「あの城」

誰でも良いからこそ……誰でも良かったはずなのに、その2人がその場にいることが尊く思える。それはとても素敵な人生観だなあと思います。

ばいびー。

自然に回帰したい思いもあるんです。

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