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Stay Gold, Ponyboy.

デジタルデバイスやインターネットに対する謙虚さのハナシ。

まいど、イオリンでござい。

私が社会人なりたての頃、一般向けのシステムやアプリケーションを作る際には「如何に隙間時間に割り込むか」が大事だと言われてきた。Facebook、TwitterやSmartNews、Gunosyなど様々なサービスが人々の「隙間時間」を奪い合っており、そこでより多くの隙間時間を獲得できたサービスこそが時代の勝者となるのだと。

あれから数年ほど経った。あの頃のような「隙間時間競争論」はあまり目にしなくなってきた。それどころか、「デジタルデトックス」などといった単語が流行り、むしろ「デジタルデバイスから隙間時間を守ろう」という動きのほうが目立っているくらいだ。

昨今のデジタルデバイスは以前にも増して、私たちから時間を奪おうとしている気がする。2010年くらいと比べると、スマートフォンに届く通知も多種多様だ。

「こんなニュースが届きました」
「Aさんから電話です」
「メールが3通届いています」
「BさんがInstagramでライブをはじめました」
「明日の昼頃に荷物が届きます」
「明日の天気は雨です」
「明日はCさんの誕生日です」

四六時中こんな通知が届いて、とにかくスマホを見させようとする。こんなにも隙間時間に侵略しようとしてくると、デジタルデトックスなどと言いたくなる気持ちもわかる。

私は身の回りのデジタルデバイスの通知を基本的に切っており、私が画面を見ない限りは通知してこないようにしている。メールも朝昼晩に目を通すくらいだ。なぜなら、私は時間を細切れにされたくないからだ。

学生の頃から言い続けていることだが、私は「まとまった時間がないと集中して物事に取り組めない」と思っている。仕事も遊びも問わない。

デジタルデバイスの通知を「ON」にしていると、まとまった時間を細切れにされしまうのだ。本を読んでいても、10分おきに通知音がなっていては、とても本の世界にのめり込むことなどできはしないだろう。このブログの文章を書くにしても、通知をONにしては進みが遅くなる一方だ。恋人とのディナーの間にも通知音が何度も鳴ってしまうとムードも台無しというものだ。

とかく私にとっては、「時間を細切れにされないこと」が人生における大きな課題なのだ。

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話は変わるが、私は最近、Googleでモノを調べすぎることの怖さを感じている。

Google歴と言えばそれはもう高校くらいからだから、10年以上Googleに頼り続けてきたし、今でも頼らざるを得ないのだが、最近のGoogle検索は精細を欠いていると思うのだ。

原因はまぁ、「SEO(Search Engine Optimize)技術の進化」のせいだろう。簡単に言えば、「どうすればGoogle検索で上位に来るかをみんなが知り始め、うまく利用しまくっているから」ということだ。

軽くSEOについて触れると、SEOというのはまず先に「ようし、”日本 経済 将来”というキーワードで検索した場合、上位に来るように最適化するぞっ!」という風に特定の検索キーワードに狙いを定めて仕掛けていく。

そしてSEO技術を使う人が増えるということは、検索結果が「SEO技術が上手いサイトランキング」になってしまう、ということなのだ。せっかくGoogleさんがユーザに価値あるページを紹介しようとしても、結果的にただの「SEO対応よくできたで賞ランキング」でしかなくなってしまっている(そしてその費用対効果がバカにならない)。

一昔前なら、特定のキーワードだけがSEO技術ランキングになっているだけだったのだが、もう昨今ではみんながGoogle検索するキーワードのほとんどが、SEOよくできたで賞ランキングになっているのだ。

私は基本的にGoogleとかFacebookとかは無条件に信じている。例えば彼らが秘密裏に情報操作する、なんてことは絶対にないと思っている。ただ、SEO技術巧者がそーいうことを考えることは十二分にあり得ると思っている。社会現象になったフェイクニュース問題などはまさにそれが顕現した例だ。

例えば、スーパー悪どい会社が「よし、Aさんから賄賂もらったからAさんを国会議員選挙に当選させるぞ!」と思ったとして、Aさんが当選するように有利な情報を書いたWebページを大量に作り、それらをGoogleの様々な検索キーワードの上位に配置したり、SNSで拡散しまくったりした結果、大衆の洗脳に成功してAさんを無事当選させた!みたいなことが起きてもおかしくないわけだ。

(実際、同じようなことをテレビとか新聞とかしてないんすか?と聞かれれば私にも何とも言えない。)

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また、それとは別に、今やWebページが多すぎて、「どんな主張にも裏付けを見つけられてしまう」ということも、私がGoogleやインターネット全体に怖さを感じる所以でもある。

例えばここ最近、ミサイル実験で日本全体を賑やかせている北朝鮮の金正恩氏だが、「彼は愚かだ」という主張も、「彼は賢い男だ」という主張も、インターネット上で調べれば簡単に見つかる。

他にも「株をやるべきだ」「株をやるべきでない」「結婚はすべきだ」「結婚はすべきではない」「早起きすべきだ」「早起きとかしなくてもいい」などなど、それぞれのキーワードで検索すれば、その主張を骨太にしてくれるようなWebページはきっと見つかるだろう。

つまるところ、あなたのほとんどの主張に対して、それを納得させる、自信付けさせるWebページが存在しているのだ。

だから、インターネットで調べるということが、「自己洗脳をかける」ということにならないのだろうか。そんなところが私は不安なのだ。

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疑いだしたらきりがない、というのはまさにその通りだ。そんなことを言えば書籍の信憑性だって怪しいもんだし、もしかしたらFacebookが教えてくれる誕生日も嘘かもしれない。

だから、「何でも疑え」なんて疲れる生き方をしたいとも思わない。ただ、デジタルデバイスに対して、ほんの少しの謙虚さを持って接するべきだと思う。

「デジタルデバイスが正義」「インターネットが正しい」ではなく、それらも改善の余地を含む存在なのだという前提を持って接するべきだと。

ばいびー。

こーいう英語はいちいちかっこいい。

inspired by…

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