誰かにとっての何者かになること、のハナシ。〜映画「何者」を見て。〜

まいど、イオリンでござい。

先日、「何者」という映画を観た。私は見る気はなかったのだけれど友人に誘われたので見に行くことにした。「自分では興味なかったモノを、他人からの誘いで体験する」というのは中々楽しいことだと思う。

さて、以下、まぁネタバレとかを含みながら色々と感じたことを書いてみる。

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まず簡単にあらすじを言うと、「何者」という映画は同名の小説を題材にした映画だ。日本の「就職活動」に取り組む若者たちのやりとりを描いた映画だ。ジャンルは…なんなんだろう。今Googleで調べたら「ドラマ」とだけ言われた。いや、まぁその通りなんだけれどね。

2016年を舞台にしていて、Twitterや就活サイト(リクナビ2016)とかが普通に出てきていた。OB訪問やWebテストと、それに取り組む彼らは、とても現実に即しているように思えた。

登場人物も、「あぁ、こーいう人、就活で出てくるよな」というのが多かった。「分析屋で第三者目線の人」「アホそうなんだけどやたら明るくて、なんだかんだ何とかなっちゃう人」「色んな特異な経験を積んでて意識高い系と言われがちな人」「斜に構えて自信家かつ天の邪鬼な人」…うん。こーいう人、いるよね。

こーいう色んなパーツが本当に現実に即しているせいで、同世代の人は簡単に「自分の生活」と重ねることができちゃう。私自身、自分の就活時代や現在と重ねたり比べたりしていたし、そーすることでこの「何者」という映画のメッセージがより深く突き刺さる気がする。

そーやって見ることができれば、示唆に富んだ素敵な映画として心に残ると思う。その分、痛いところを突かれることもあるから疲れちゃうけど…。

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さて。

私は時々、「何者かにならなければいけないのだろうか」と時々考えます。そーいう時は大抵悔しい思いをしたり空しい気持ちになったりした時なんだけれども。まぁいわゆる「私ってこのままでいいのか」という気持ちと直結しているのが、「何者かにならなければいけないのか」という疑問——焦燥だと思う。

「何者かになる」という事は、世の中における「役」を頂くことだと私は思うのね。それが「○○会社の社員」という社会的地位かもしれないし、「誰かの夫 or 妻」といったようなものかもしれない。とにかく、誰かの人生における「エキストラ」ではなく、「○○さん」という役を頂くこと。それが「何者かになる」ということじゃないかな、と。

そーいう役を頂くことって、多分、一筋縄じゃあいかないことだよね。みんな人生でめちゃくちゃ大量の人間と出会っているはずなのに、ほとんどの人が「エキストラ」でしょ。同じ会社の同期とか、同じ学校の同級生とかも、その大半が「エキストラ」じゃん。一時的に何かの役を演じることはあっても、それが終わればエキストラになっちゃうでしょ。

誰かの人生最後にスタッフロールが流れたとして、その中に自分の名前が「役」として出てくるのってすんげー大変なことだ。狭い門なんだよ、「役を頂く」ってことは。

けれども、ほとんど誰からも役を与えられない、ってのはめちゃんこ辛いことだとも思う。

だから、みんなは肩書きに縛られたり、何かしらに依存しちゃったりするんだろう。肩書きを持っていれば、それは「役の証明」となる。SNSやサークルに依存してそこで大きな役をもらえれば、自分が何者かになったような気分でいられる。

私も、何か空しい夜はそーいう肩書きが欲しくなったり、何かしがに依存したくなったりする。でも、きっとそーいう風にして得た「役」じゃあきっと満足しないんだろうなあ、と思う。どうせまたどこかのタイミングで「今の自分じゃない何者か」になろうとしちゃうんだろう。

必死になんとか生きていく。それしか結局ないんだろーな、ということも思う。つくづく、生きていくって半端じゃないんだなあ。

ばいびー☆

こういうのが野ざらしにあるのって、すごいよね。

こういうのが野ざらしにあるのって、すごいよね。