「死」をどう体験するのか楽しみだ、ってハナシ。
まいど、いおりんでござい。
以前の更新から随分と間があいてしまった。ちょーっと日々に余裕がなくって、ダメダメな感じになってました。お盆になって関西に戻り、強制的に余裕を持たせるようになったので、また書き始めます。
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私は割と「死」が楽しみだ。それは別に「死にたい」とか自殺願望があるとかじゃなくて。
この私自身は私の「死」という現象を通してどーいう体験をするのか、というのが未知すぎて楽しみなのです。
よく輪廻転生だとか生まれ変わりだとか浄土極楽地獄云々言うけれども、それも結局ファンタジーでしかなくてさ。だってそれ考えた人も実際に「死」を経験したわけじゃあない。あくまで、「死ぬとこーなるんじゃね?」でしかない。
私はリアリスト気味なので輪廻転生とか信じない。現実的に考えると、私たちは自分の死を「知覚できない」んだと思う。それは眠りはじめを知覚できないのと一緒で、知覚するための器官が「死」によって止まってるから、知覚できない。
そーなると、完全なる無か、あとは知覚器官が働いた最後の瞬間でストップするか。だよね。
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でも、よく考えたらこの私の意識、自我、こころ、魂ってやつは、それ自体がファンダジーじゃんか。脳の機能をどこ探しても、「自我」って昨日は見つからない。この主観的体験を裏付ける器官はないわけ。
だってロボットと同じように五感センサーに対応した反応を機械的に返せばそれで人間の機能としては問題ないじゃん。痛みを感じた時に「痛い」って口に出す機能はあるけど、この「自我」が、「痛み」を感じる必要もないしその機能の確認もできない。でしょ。
でも実際に「私」はいる。みんなの中にも「私」という主観的体験はきっとあるんでしょう。そんな機能、脳にあるなんて確かめられないのに。
それってすごいファンダジーでしょ。存在を確かめれないのに確かにあるもの。
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死ぬときは、死に思いを馳せられるようなゆとりを持って死にたいですよね。苦しみながら死ぬのはやだなぁ。
ばいびー☆