フリートークでおハナシ〜大人になって〜
まいど、いおりんでござい。
今日もフリートークということでね。お願いしたいと思うんですけれども。
私、現在27歳でね。27歳って言えば冷静に考えれば結構な大人じゃないですか。子どもの頃、「27歳の男」…もっと言えば「27歳のヒゲ男」って言えば、それはもうお兄さんじゃなくってオジサンやったでしょ。
実際、27歳になった私だけれども、「お前は大人になったか?」って言われれば、ちょっと分からないよね。ひねくれてる私は「大人の定義教えてよ」って聞き返すよね。10歳の頃の私が未来への手紙だ、っつってタイムカプセルに手紙入れて、その中に「君は大人になっていますか?」って書いてたらお前それはちょっと定義が甘いぞって。曖昧でフワフワした言葉使ってかき回すんじゃねーよって言うよな。
で、「大人」の定義を調べて広辞苑(Wikipedia経由)を見てみたら、下記のごとしで。
- 十分に成長した人。成人。
- 考え方や態度が十分に成熟していること。思慮分別があること。
ざっくりか、って。「十分に成長」「十分に成熟」ってお前誰にとっての十分だよ。なんだ。兄か、親か、国か、恋人か、ネズミか、自分か、誰にとっての十分だよ、って。
まぁでもその中で「成人」っていう言葉だけはしっかりしてるよね。法的に「成人」と言えばつまり「20歳以上」だから、20歳以上なら大人なわけだ。つまり執筆時点27歳の私は紛れもなく成人だから、イコール大人だ、ってことになるよね。でも、だとしたら「お前は大人になったか?」って聞いてきた10歳の頃の私にまた怒るよね。「足し算を覚えてから出直してこいバカ」って怒るよね。
だからさっきの「誰にとっての十分か」ってところが肝要で。まぁ仮に「自分にとって」だとしたら、まぁ私は私を見て「お前は十分成長した」なんて言えないよな。だから私は私のことを大人とは言えないのかもね。というか、「お前は十分成長した」なんて自分に対して言える時点でお前それは自分に対するハードル低すぎだろ、って思うけどな。
自分で自分のことを「お前はそのままでいーよ」って思うのは決して悪い事じゃなくって、むしろハッピーに生きるにはとても重要な心掛けだと思うけれども、それと「お前は十分成長した」ってのはまた違う心掛けだよな。世界は進んでいるんだから、それに合わせて自分も進ませないと、結局それはゆるやかな退化をしちまってるわけだ。だから、「お前は十分成長した」なんて思ってると結局退化の一途だよ。
だから「お前はそのままでいーよ」と思いつつ、同時に「お前はまだまだ未熟」って思うことこそが大事で。だとしたら「十分に成長した=大人」って広辞苑は言うけれど、私にとって大人なんて一生訪れねーな、と思う。まぁ、それでいーよ私は。君もきっとそれでいーよ。子どものまま一歩一歩進んでいけばそれでいーよ。
バイビー☆
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バイビー☆じゃねーよ。ちょっと良いこと言って満足しかけたけど、私最初はこんなこと言うつもりなかったわ。ここまでが前置きです。というかこの後に話す内容がちょっと引かれるかな、ブランドイメージ落ちるかな、と思ったのでゴタクを並べてあわよくばその途中で飽きてもらって見られないようにしてみようか、っていう実験です。
「じゃあ書かなきゃいーじゃん」って言うけれど、これ書かずにはいられないんだよ。今の私にとって割と重要な考え方だから。それに、抑えようとしても「書きたい衝動」が溢れてきて。「あぁ、私が本当に文章にしたいところってここなんだな」って思うよーなことなんだよ。だから書く。苦し紛れの前置きでした。
ここから先は割とドン引きだろーな、ってことを書くから皆さん、ちょっと気分悪くなったらごめんなさいね。フリートークってことで熱情のまま書き連ねていきます。
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さて。
私、現在27歳でね。27歳って言えば冷静に考えれば結構な大人じゃないですか。えっ、さっき聞いたって?まぁまぁ。
27歳にもなるとさ。やっぱ私の親友は結婚したり、はたまた結婚を考えたり、まぁそーいうハナシが出てくるわけでね。まぁ私も将来、結婚して家族とのんべんだらり、風の吹くままに生きて行きたいと思うからさ。「結婚」っていうテーマは嫌いじゃないからよく話すんだけどね。
ここで私が現在抱えている悩みがあってね。言葉にするのは恥ずかしいフレーズなんだけれども「愛を信じられない」ってことなんだよね。
自分で言うのもなんだけれども、私ってひねくれモノのようでどこか純粋な部分がきっとあってね。その純粋な部分の一つに「愛を信じたい」っていうところがあるんだよ。この「愛」ってのは肉欲とはちょっと離れたところで、恋愛、友愛、情愛、慈愛、親愛、そーいうのを含めた「誰かを愛する力」みたいなのをすんごい信じたいんだよ。少年少女の時代、誰もが信じていた愛を私は信じ続けたい。
でも、大人になるとみんな愛を信じなくなるでしょ。「愛か金か」みたいな論議は世界中で行われる。どれだけ深く愛し合った男女でもやがて愛はなくなる、みたいな通念が染み渡るじゃん。
実際、愛は作れるし消えるでしょ。「こーいう質問を互いにして一定時間互いに見つめ合えば恋人同士になれる」みたいな研究は実際にあるし、「単純に接触量を増やせば友情は芽生える」みたいなことも言われているし、体感的にみんな感じてるはずだ。愛は作れるし、愛は消える。「アタシたちだけは別だよね(はぁと)」みたいに思っているかもしれないけれども、通念で言えば、愛は作れるし消えると思うでしょ。だから多くのドラマで浮気や不倫が描かれても何も思わないじゃん。
結局のところ人間なんてのは遺伝子とか脳みそとか五感に縛られた生き物で、ただ子孫を残したいから発情期にテキトーに生存能力の高そうな遺伝子を持つ異性を求めるんだよ。それが人間の生きる生物学的な意味であり理由だからね。究極を言えば、脳みその然るべき場所に電極ブッさして電気流せばきっと愛は生まれるし消える。
でも、それでも私は愚直なまでに愛を信じたいわけよ。
それで結婚のハナシに戻るけれども、私の理想の結婚って言うのは、この「愛」のある結婚なんだよ。別にずーーっと出会った頃のようにイチャイチャしたいとかじゃないよ。けれども、広い意味合いでの「愛」は消えないと信じたい。おじいちゃんおばあちゃんになっても、互いに「一緒に過ごせるとなんかいーなぁ」「なんか楽しいから一緒にいたいね」って思えるよーな、そんな感じでいたいのよ。
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理想としては「愛を信じたい」けど、現実問題として「愛は消える」っていうことも知ってるから、「愛を信じられない」。というか、信じるのが怖いよね。愛を信じれば信じるほど愛が離れた時の傷ってすんごい深くなるでしょ。それならばいっそ、最初から愛なんか信じなければ良かった、って思うでしょ。北斗の拳の聖帝サウザー様と一緒の気持ちだよね。
愛ゆえに人は苦しまねばならぬ!!
愛ゆえに人は悲しまねばならぬ!!(中略)
こ…こんなに…悲しいのなら…苦しいのなら……
……愛などいらぬ!!
聖帝サウザー様も愛を信じて苦しんだ悲しいお方ですよね。サウザー様は師匠オウガイを実の父のように慕っていたんだけれども、修行の最後、自らの手でオウガイを殺してしまい、そこで深い悲しみの末に愛を捨てた。
それと同じで私も愛を捨てたくなる。けれどもそれも寂しいよな、と思ってまた信じてみたくもなる。この狭間で揺れながら日々のんべんだらりと過ごしている、イオリンです。
今日はここまで。
ばいびー☆