「痛み」がないと変わらないってハナシ。
まいど、いおりんでござい。
最近、従姉妹の大学生の子に会った。会うのは多分10年ぶりくらいなんじゃねーの、ってくらいなんだけれど、なんか順当に成長してた。人ってよく変わるよーで、あんま変わらんよーで。面白いよね。「まだイケメン好きなんだ!」って。
さて。
その従姉妹、仮にキャサリンだとすると、キャサリンと会う前日くらいに、その従姉妹の親(つまり叔母?)から「社会の厳しさを教えてやって!」みたいなことをLINEで言われたんだよね。
キャサリンは多分、親から「世間知らず」と思われてんだよね。ずっと「夢」を持っていて、そのために活動してるんだけれど、ちょっと努力が甘いというか。「それを目指しているライバルはきっと、君よりもずっと努力してんぜ」って思っちゃう。そんな特に珍しくもない子だ。
で、キャサリンの親もきっと同じことを思ってて、それを私の経験を通じて伝えて欲しーんだろーな、と思う。
でも、それって、「従兄弟の兄ちゃん」に言われて変わるかね?
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人間が変わるときには「痛み」が必要だと私は考えてる。痛い目見ないと人って変わらんのよ。その痛みの大小はあれど、何かしらの痛みがあるからこそ、何かを強く「痛感」して人は変わる。
「痛み」ってのは単純な痛覚じゃなくって。何かをして失敗して「駄目だったなー」と反省したりとか、何かを失ったりだとか、何かに不安を感じたりだとか、そーいう苦痛。
例えば、お金払って講演会に行くのは、「お金を払う」っていう痛みがあるから、この講演会で何か得なきゃいけん!って思うわけじゃん。多分、無料の講演会では人はあんまり変わらん。時間の損失を痛みと取れるならば別だけどね。
私にしても、私が今フリーで活動するような考え方になったのは、企業に雇われていた時代にめちゃくちゃ痛い目見たからだ。学生時代、就活していた時期はフリーになるなんて全く考えていなかったからね。痛みを味わって、考えを改めることになった。
今もそーだ。毎日、色んな失敗や反省で痛みを感じることで変わり続けていると思う。私は無数の痛みによって色んなことを「痛感」して、変わり続けて今の考え方に至っている。
逆に、痛みを感じていないところでは、私は子どもの頃と何も変わっていないと思うよ。
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じゃあなんで、「痛み」で人は変われるんだろう?
例えば子どもの頃は、人はまだ簡単に変われるんだよ。そもそも生き方とか考えてないじゃん。そーいう時って、色んな価値観において「そもそも考えたことがない=空っぽ」の領域がたくさんあるわけ。だから、本を読んだり話を聞いたりするだけで簡単に変われる。「空っぽ」の領域に対して価値観が入るだけだからね。それなら簡単だ。
でも、そーやってある程度生きてくれば、「空っぽ」の場所がなくなってくる。そーなると、人は簡単には変われなくなる。本を読んだり話を聞いたりしても、知識として納得することはあるだろーけど、結局価値観としては頭には入らない。もう中身があるんだから。
そこで「痛み」が効果を発揮する。ある価値観において行動した結果「痛み」を味わったとき、多くの人はその価値観を疑うでしょ。
例えば「お金さえ稼いでいれば幸せになれる」と思って毎日生きてきたオジサンも、妻と子どもに家から逃げ出されれば、その価値観を疑うよね。「あれ?お金を稼いでいても、私は不幸になったぞ?」って。
その時、人はその価値観を捨てることがある。妻と子どもに逃げられたオジサンは「お金さえ稼いでいればいい」という価値観を捨てて、空っぽになる。一旦「空っぽ」の領域ができあがる。
そーなったらもう、子どもと同じだ。本でも伝聞でも何でも使って、人は変われる。オジサンは友人に相談して、友人に「駄目だよ。ちゃんと奥さんや子どもを尊い存在だと考えて、常に幸せにしてあげられているか自問しないと」とか言われれば、オジサンは簡単に変わる。
要するに、「痛み」によって、人は凝り固まった価値観を捨てて「空っぽ」になることがあるんだよね。だから、捨てた価値の代わりに、「空っぽ」の部分に新しい価値観をいれることができるんだ。
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もちろん、「痛み」以外でも価値観を「空っぽ」に戻せることもあるし、そもそもまだ「空っぽ」だった面に気づくことだってある。それでも人が変わるけど、少なくとも20年以上生きてきた人が変わるためには多くの場合、「痛み」がいるんじゃないかな、とイオリンは考えるよ。
何かに感動して変わる人もいるけど、そーいう時って何かしらの痛みを感じていると思うんだよね。ほら、「胸に刺さる」って言うでしょ?感動と共に痛みも味わって、変わってんじゃないかな。
ところで、こーいうところで従姉妹の名前を「キャサリンにしよう!」って考えちゃうのが私のダメなとこだよね。
ばいびー☆