好意の返報は「あったらいーな」のラッキーイベントでしかない、ってハナシ。
まいど、いおりんでござい〜。
今回は下記エントリを見て。
参考: 好意の返報性があったとしても興味の返報性なんざ俺にはねえ – ←ズイショ→
「好意の返報性」ってのは確かに存在すると私も感じる。「人は好意を向けられると、好意を返したくなる。」とか「人は何かを与えられると、何かを返したくなる」というのは、自然のことだ。
究極を言えば、見た目が可愛かったりかっこよかったりするのがモテるのは、誰かと接するだけで自動的に「眼福となる視覚的情報」を与えているからじゃねーかな、とも思う。知らないうちに良いモノを与えており、それに対する返報性が働いて、好意が向けられる、と。まーそーいうロジックが働いてんじゃないかな。
例えば人と人とが長く一緒にいるときも、常に楽しさだったり何だったり。時にはプレゼントだったりを与えることで、自分に対する好意を保つのは悪くない策だと思う。実際、色んなサービスが「好意の返報性」を使っている。試食とかね。
好意ポイントを下げないように好意を与え続ける、っていういじわるな言い方をすればテレビゲームのように見えるけど、実際に人間のつくりがそーなってんだから。
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ただ、それが行き過ぎて「好意ってのは絶対に返報されるもの」って考えると、途端におかしくなっちまうよな。「私は好意を向けたのに、色々与えてあげたのに、なんで何もしてくれないの?」とか考え出すと、コミュニケーションが濁っちまう。
確かに「好意の返報性」っていうのは存在するけど、それはあくまで「性質」であり「そーなる可能性が高いよね」でしかなくって。それのアテが外れたとしてもしょうがないと思うんだよね。
好意なんてそもそも、正しく伝わるかなんて分からないじゃん。「好きだよ」って言ってキスをしても、「こいつ、私のことが好きなんじゃなくって、身体が目当てなんでしょ」って伝わる可能性もあるわけだからね。
だから、「好意の返報」を前提としているような人は面倒くさいし、「好意の返報」で成り立っているコミュニティはすんげー居辛い…というか、多分やっていけない。
ただ最低限の「個々の思いやり」くらいが前提として許される範囲じゃないかな。好意、興味、見返り云々は前提じゃないよ。ラッキーイベントだよ。
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乱暴な言い方をすれば、私は他人に好意も優しさも期待していないです。他人の心なんて見えないし好意も優しさも絶対証明できない。そもそも、もしかしたらその人は心なんて持たない哲学的ゾンビ 1かもしれないじゃん。
そんなもの期待してもしゃーない。期待せずにたまに「もしかして?」と気づいて驚くくらいがちょうどい。そう考えてます。
好意を示すときは、相手がどう思おうが全く関係なく、「自分が【相手にとって良い】と思っていることをやる」だけです。それが健全じゃない?
ばいびー☆
Notes:
- 外面的には普通の人間と全く同じように振る舞うが、その際に内面的な経験(意識やクオリア)を持たない人間のことをさす哲学の概念。 ↩