自分の人生経験は肥やしであって、それ自体を切り売りするもんじゃないよ、ってハナシ。

まいど、いおりんでござい。夏が終わるかと思えば終わらなかったり、かと思えば雨降ったり、早く秋が来て欲しいもんですな。

さて、先日、下記エントリを読みました。

参考: 友達がブログが理由で離婚しそう
参考: 離婚されないブログ運営のために気をつけたいこと – ←ズイショ→

ざっくり言えば、「何でもかんでもブログに書くのが嫌。何をするにも全部筒抜けだし。」みたいなハナシだネ。

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まーブログとかモノ書きとか、他にもラジオのパーソナリティさんとか、いわゆる「自分の体験をもとに何かを作る人」っていうのが陥りやすいワナだと思うネ。最初は自分の体験をブログに落とし込んでいっていたのに、いつの間にやらブログに合わせて自分の生活が落とし込まれていっている、ってカンジ。

例えば、ブログを毎日書くメリットとして、「毎日の行動が活発になる」みたいなことがよく挙げられる。私も書いていた気がする。「あぁ、書くネタがないから、ちょっと美術館にでも行ってみよーか」みたいなことだね。

このこと自体は別に悪い事とは思わない。たとえば、ブログを書いているうちに珍スポットへ行くのが好きになって、度々珍スポットに出かけていっては、それをブログに書くようになった。とか。そーいうのは良いと思う。ブログと日常生活の質が相乗的に上がっていく。

ただ、それでもあくまで、ベースは「日常生活」にあるべきだと思う。日常生活を全力で送って、その後に腰を落ち着けて、「さ、ブログにどーやって書くかな」って考え始めるべきでしょ。まず毎日を楽しく一生懸命生きることが先であって。

そこが逆転して、日常生活のなかで既に「客受け」を考えて行動しちゃうと、そりゃーその人自体も面白くなければ、周りにいる人だって面白くないよネ。奥さんだってそりゃ離婚しちゃうよ。

僕が過去の経験を笑い話にするのだってそうです、とりあえずすべてが終わった後に「この経験をどういう順番でどういう風に話したら面白くなるだろうか」って考え始めるわけです。これはたぶんすげえ当たり前のことです。ただ、これがもし逆転するってなるとヤバくないですか?

(中略)

「こういう風な記事を書こう」という構想に従って目の前で起きている生活の端々で迫られる意思決定を行うことになってしまうんじゃないだろうか。

引用元: 離婚されないブログ運営のために気をつけたいこと – ←ズイショ→

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ま、あとは「どこまで書くの?」ってハナシだよね。冒頭の記事の人は私生活をぜーんぶ書いちゃって、そのせいで奥さんは嫌になっちゃった、と。

そりゃぜーんぶ書いちゃったら駄目だよね。それは単純に「誰も彼もが、Web上で自分の行動が晒されても許せるわけじゃない」っていうとこで。

人間は、ある程度自分が何をしているかバレないから自由に動けるわけだよ。その自由が脅かされるような人間とは一緒にいたくないものだよネ(人生の伴侶ならなおさら)。

ちょっと前にはFacebookやTwitterで自分の顔が写っている写真が載っていたり、自分が勝手にタグ付けされていたりするだけで問題になっていたわけでしょ。それなのに、ブログで自分の行動が(例え一部であろうと)晒されたら、嫌になる人間はそりゃ多いよね。

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それに、そもそも自分の身を切り売りしているようなブログやモノ書きは、あんまり長続きしなくて上手い手じゃないよネ。ブログを書き続けるためには、自分自身を客受けの良い人間にし続けないといけない。でも客受けの良い人間ってのは、得てして面白くない人間だからネ。

沙村広明氏の漫画「制服は脱げない」で、下記のような台詞があります。女子高生が自分のだらしない私生活を「ケータイ小説」と称して垂れ流そうとしているのを同級生が諌めるシーンです。

モノ書きに限らず創作者ってのはさ、知識も含めた自分の経験を肥やしにして、その肥やしで作った野菜を売るのが仕事ーだと思うのね。

アンタのしようとしている事は肥やしを売ろうとするのと同じ事よ。売り払った後、アンタの畑でどんな野菜が育つっていうの!?

引用元: シスタージェネレーター 沙村広明短編集 (アフタヌーンKC)

まーこの通りですな。自分の日常生活を肥やしにして何を作るか、何を成し遂げるかが腕の見せ所であって、良い肥やしを作ることをゴールにしちゃー底が見えるってもんヨ。

ばいびー☆

石の道はかっこいいと思ういおりん。

石の道はかっこいいと思ういおりん。