名は体を表すと言うけれど、表したい体のために名を変えるのもいい、ってハナシ。
まいど、イオリンでござい。
私は最近、自分のことを「フリーランス」と名乗ることを意識的に避けている。理由は、一時期フリーランスという言葉が流行ったときに、フリーランス=自分の力でバリバリ働いて稼ぐ人、みたいなイメージがついてしまった気がしているからだ。
限に色んなところで「フリーランスのエンジニアです」と言うと、「すごーい」「実力あるんだねー」とか言われることが多い。私は就労形態として「フリーランス」を選んだだけだ。自分の理想の働き方というヤツを考えた結果、「フリーランス」という形態で働いているだけだ。
だから私は最近、自分の職業を表す時は「IT系の自由業」とか「個人のITエンジニア」などと言っている。
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言葉というモノはとても強い力を持つ。言葉通りの意味合いの他にも「イメージ」という形で様々なことが伝わってしまう。
私は住宅の形態として「シェアハウス」というモノはとっても魅力があると思っている。ただ、それは「1つの住宅や家財を複数人で使った方が、1人暮らしよりもずっと効率がいい」という理由であって、「コミュニティ」とかそーいうモノに対してそこまで魅力を感じていない。
ただし、「シェアハウス」という言葉を使うと、世間一般的にコミュニティ色の強いモノを想像されてしまう。みんなで和気あいあいとリビングで団らんしており、「人生をシェアする」という意味合いとして扱われることが多い。
だからもし私が「効率が良い」という理由でのシェアハウスにするなら、シェアハウスという言葉は使わないだろう。ルームシェアにちなんでホームシェアとか。ホームを先に持ってくれば、あくまでホームをシェアする、という意味合いが強まる。
言葉はそれだけで言葉以上のモノを伝えてくる。だからこそ大事に使っていかないといけない、と思う。
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以前書いたことだけれど、私の友人が言っていた「課長とか係長じゃなくて、アカレンジャー・キレンジャーとかならいいのに」という案はとても素晴らしいと今でも思う。
日本の会社に昔からある役職名に対するイメージは悪質だ。課長は「課のトップ」であり、課においては課長だけがリーダーシップを発揮して、部下はただそれに従えばいい、かのような絵面に見えてしまう。それに課長も、部長の命令に原則従う、というようなイメージがあり、権限が中途半端に見えてくる。
それでは皆が会社の利益のために頭を回転させるのは難しい。課長も「自分の課の利益だけ最大化させればいいや」「部のことは部長が考えてくれるだろ」といった意識になってしまう。役職名のイメージがそうだからだ。
だから、課長ではなく「キレンジャー」とかいう呼び名に変えてしまうことで、「俺はキレンジャーだからキレンジャーなりのやりかたでゴレンジャーに貢献せねば」という意識が出てくる……かもしれない。
名は体を表すと言うけれど、求めている体に合わせて名を変える、というのはとても有効な策だ。
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私も自分のことをフリーランスではなく、自由業と言い表すことで、既存のフリーランスの枠にとらわれることなくやりたいように縦横無尽に動ける自分でいられている気がする。フリーランスと自負していたころは「どうすればフリーランスとして生きられるか」という頭の使い方だったはずだ。
そのために多少無茶な仕事だったとしても無理して引き受けていた。新米フリーランスとは「そういうもの」だからだ。
でも私自身は、無茶な仕事には断固としてNOを突きつけたい人間なのだ。自分が提供できる価値を自信を持って提供し、それに呼応してくれる方と仕事をする。そんな自分でありたい。そして毎日を楽しくなんか生きてみたい。
だからこそ、フリーランスという呼び名はやめて、自由業と呼ぶのだ。
ばいびー☆