「ささいなこと」が共有されてこそインターネットコミュニティの品質は高まるってハナシ。
まいど、イオリンでござい。
私は大学生の頃、「ライフログ」というモノを研究していた。ライフログとは、その単語の通り、「人生の記録」だ。カメラとかマイクとかGPSとかを組み合わせる事で人生のすべてをデジタルデータ化し、管理することをライフログと呼ぶ。
元々は先輩が研究していたことだった。先輩は「ライフログを公開することでコミュニケーションが生まれるんじゃないか」ということを研究していた。
私自身の研究開発は大学3年生の頃に一段落してしまっていた。そちらは地元企業との共同研究として行っていたが、想像以上に大変だったことと、自分自身で舵を取りきれないこと、その研究テーマにそこまで興味が持てなかったことから、「一段落した時点で手放そう」と考えており、その通りにした。
研究テーマを手放して少しした頃、大学院を卒業した先輩の研究を引き継げることになった。元々自分の人生を誰かに見せることに全く抵抗がなかった私はその研究を引き継ぐことに決めた。もちろん、自分自身で研究テーマを考えられなかったことも理由にあるけれども。
その頃の私はあまり自分で何かを考えることが得意じゃなかった。幸か不幸かその研究はいくつかの問題点があったから、それに対処するような研究で私の研究生活は何とかなったけれど、「ライフログ×コミュニケーション」に関して新しい道筋を見つけることはできなかった。
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2010年頃、ライフログという言葉はIT界隈で随分と人気があった。もちろん「SNS」とかそーいう言葉に比べると目立たなかったけれども、スマートフォンの普及によって「見たもの」「聞いたこと」のデジタル化はとても簡単になり、それにあわせて色んな研究やサービスが出てきた。
私が一番好きなのはヤフーが運営している「僕の来た道」というアプリケーションだ。これはとてもシンプルなアプリで、自分の現在地を逐一記録することで、自分がこれまでとーいう道のりを歩んできたのか、文字通りに記録するアプリケーションだ。
このアプリケーションは単に自分で見るだけでも楽しい。「どれくらいの場所を制覇しているか」ということも見られるから全国制覇したい気分になるし、距離も出てくるから「今日すごい長距離移動したな!」とか思うだけでちょっと楽しい。必要な操作は「インストール」だけでランニングコストがゼロなのに、たまに見て楽しくなれるのはとても良い。
さらにこの「僕が来た道」のキャプチャをFacebookで公開するとコメントをいただけることも多い。「このアプリ何?」「俺の出身地来た事ないのか」「ハワイいってるんだ!」とか。こーいう動きを見るとライフログ×コミュニケーションという図式は可能性がまだまだあるなあと感じる。
自分の行動に対して誰かが興味を持ってくれることは嬉しいし、人は他人の行動に対して少なからず興味を持っている。だから、それを満たす事で面白い動きはあると思うんだ。
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ライフログが下火になったのはいつからだろう。単純に注目されるタイミングを逸しただけかもしれない。SNSという概念がITを席巻し、そのままAIとか別のワードが流行っているうちにライフログは目立たなくなってきた。単純に私のセンサが研究していた頃より弱まっているだけ、という可能性も高いけれど。
ライフログという概念にはもっと可能性があると思う反面、今の時代には合っていないのかもしれないとも思う。SNS…とりわけFacebookが流行ったのは、「インターネットに公開する情報を自分でコントロールできる」という点が大きい。
Facebookの初期における面白いアプローチのひとつは「自分たちで公開したい情報を入力させるようにすればいいじゃないか」だと思う。運営者がそれを決めるのではなくユーザがそれを決めることで、「名前しか公開したくない人」と「好意の対象も公開していい人」を共生させることに成功した。
ライフログはある意味ではそれと正反対のアプローチだ。ユーザは何を記録させるかを細部まで選べない。人が記録したいと思うことの外側までも記録することこそ、ライフログの本質だからだ。
理由の1つは、「人生における大事な瞬間というものは、その瞬間自体に認識できず、後になって気付くことがほとんどだ」という事実だ。だから当の本人がシャッターを押したがる範囲の外のことすらも記録することに意味がある。
もう1つの大きな理由として、「ささいなことの集合こそが人生のほとんどだ」ということだ。旅行に行ったり御馳走を食べたりマイケル・ジャクソンと会ったりといった派手な出来事は人生のごく一部であり、人生を形成するほとんどのことは毎朝のパンや毎日来ている服や道ですれ違った人たちなど、何でもないようなことだ。
そーいう意味で、SNSはまだこの「ささいなこと」をかばいきれてはいない。TwitterやFacebook、そしてスマートフォンによって「公開したい情報」のハードルを下げることには成功した。Twitterは「あぁ、雪が降ってる」というようなささいなことすら共有させることができた。
ところがぎっちょん。
それでも「ユーザが公開したいと気付けた情報」だけだ。「気付かなかったけれど、言われてみれば確かに公開したい情報」は公開させられていない。そしてそこにも興味深い情報はいっぱいあると思う。
ライフログはそこに切り込めると思う。
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かといって「ライフログシステムが勝手に情報を公開する」というのは確かに脅威だ。たとえ公開システムがAI技術によって日々成長していくものだとしても、自分が関わっていない要因によって情報が公開される、というのは多くの人々にとって驚異的な現象だろう。
だから理想を言えば、1日ないしは1週間くらいに1回、ライフログシステムが「今回はこれだけ記録が溜まってるよ」とか「これを公開してはどう?」とか提案してくれるくらいがいいんだと思う。それを簡単に公開 or 非公開にできる、と。それなら、「気付かなかったけれど言われてみれば確かに公開したい情報」もカバーできる。
ちなみに私が研究していた頃に得た知見で、「ライフログを公開することでユーザは毎日をより刺激的なモノにしたがる」というモノがある。
私が実際にライフログ公開システムを使って実験すると、被験者(ライフログ公開者)は毎日同じモノを公開するよりは遊園地に行ったりお洒落なカフェに行ったりと、「コメントや閲覧数をもらえそうな行動」をするようになった。
これが良い事か悪い事かは分からないけど、とても面白い動きのように思う。
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私はインターネットは今よりもっと楽しくなれると思っている。未だって10年前と比べればはるかに楽しい空間になったけれど、まだまだ可能性は持っていると思うわけだ。
欲を言えば、私がそれの一旦を担うことができればな、と思う。
ばいびー☆