命を賭けるということのハナシ。〜映画「聖の青春」を見て〜

まいど、イオリンでござい。

先日、映画「聖の青春」を見た。将棋界で「羽生世代」と呼ばれ、羽生さんと同格の実力を誇りながら29歳に命を落とした村山聖さんの一生を描いた映画だ。

今日はこの「聖の青春」についてネタバレとかも含みながら語ってみます。

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映画「聖の青春」では、村山さんの人生の中でも特に「羽生さんとの戦い」「勝利への渇望」というところに焦点があてられていたように思う。若くして難病を患った村山聖さんは、「勝つこと」に執拗にこだわる。もっと言えば「最強」に拘る。

劇中での村山さんは、文字通り命を懸けて将棋に挑んでいる。病気になったとしても、「将棋が弱くなったら意味がない」と言って断固拒否する。「次」が無いかもしれない彼にとって、「今は負けてもいずれ勝てればいい」という発想はない。最強への道を最短経路で行かなきゃ意味がない。

癌が見つかった時も手術や検査を後回しにし続けたり、「絶対安静」と言われていても羽生さんとの将棋の試合に赴いた(朝10時〜夜25時頃まで闘った)。

劇中の対局シーンは、本当に息が詰まりそうになるほどの気迫だった。演者たちは実際の棋譜を全て覚えて、3時間にわたって演技し続けたという。

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思えば私は大人になってから勝負の世界にあんまり身を置いていない。仕事はある意味では戦争なのだけれど、実際は案外みんなテキトーだなあ、というのが本音だ。少なくとも私がいる界隈ではそうだ。ベンチャーにいても勝った負けたとかいう感覚はない。

今の世の中、命をすり減らして生きている人は大勢いるだろう。それこそ過労死だったり仕事要因での自殺だったりが頻繁に起きてしまっている。ただそれは、明確に「敗けたから」というわけではない。勝負もさせてもらえずに知らない内に命を奪い取られているだけだ。

また、特に不自由なく生きている人だって、その多くは勝負せずにただベルトコンベアに乗って作業していたら生きていられた、という人もいるだろう。別にそれが良いとか悪いとか言いたいわけじゃなくって。ただ一般的な社会人は勝負とは違う世界で生きていると思う。

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映画「聖の青春」では、聖の弟弟子として「江川」という人物がでてきた。彼は棋士の卵であり、プロ棋士になるために必死に努力を続けてきた。しかし、彼は夢破れてプロ棋士になることができなくなってしまった。

軽く将棋の棋士のハナシをすると、プロ棋士になるためには、実はすごーい難しい闘いをくぐり抜けなきゃいけない。しかも年齢制限があり、その年齢に達するまでに難関を突破できないと、プロ棋士になることはできない。(私、イオリンはこれを書いている時点で年齢制限超えてるのでプロ棋士になれません。)

江川は最終試合で鼻血を出すアクシデントが起きたけれども、必死に必死に闘った。しかし、結果は敗北。彼はプロ棋士になる道を断たれてしまう。そんな彼は「次の人生を歩みます」と切り替えようとするが、聖はそんな江川の誓いを「負け犬の遠吠え」と吐き捨てる。

江川も人生を賭けてプロ棋士を目指して頑張った。しかし、聖とは命の賭け方が違った。

江川「俺かてなぁ、俺かて命賭けて……

村山「お前のどこが命賭けとんじゃ!!

引用元: 映画「聖の青春」

聖の命の賭け方は異常だった。大病を患っても手術より将棋を選ぶ。「明日死ぬかもしれないから今日勝たなきゃいけない」。そんな覚悟を持った人なんて本当にいるんだろうか。大なり小なりのフィクションはあると言えど、「村山聖」という人間が、29年間将棋に命を燃やし尽くしたことは事実だ。

江川は「勝っても敗けても生は続く」という範囲で命を懸けていた、聖は「明日死ぬかもしれない」という範囲で命を賭していた。二者はその違いだったと思う。

「命を賭けるとはどういうことか」ということを改めて考えさせられる。

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私は幸か不幸か、「好きに生きたらいい。やるべきことなんてないんだから」という考えを確立させてしまった。そのおかげで残業地獄に悩まされる事もないし、色んなことを乗り越えられて今を楽しく生きることができている。そう確信している。ただ、それと引き換えに、「命を賭けて成し遂げる何か」を永遠に手放してしまった気がする。

それは寂しいような気もするけれど。今が楽しいからそれでいいか、という気もしなくもない。ある意味「今を楽しむ」ということに命を燃やしている気がしなくもないし。

ばいびー☆

悟りの窓とかなんとかいうあれ。

悟りの窓とかなんとかいうあれ。