フリートークでおハナシ。〜今は感性の時〜
まいど、いおりんでござい。
少しばかり間があいていましたね。「イオリンの何か」のほうで詩を書いてしまうと、「あぁ、今日も1個伝えたし、いっか」って思ってしまうんだよな。「何か」は「手記」とは違って本当にただの言葉遊びだから、自信を持ってお伝えすることは難しいんだけれどさ。
まぁでも、だから「手記」はなくてもいーか、って言うと全然そんなことはなくて。言えば「手記」は左脳的・論理的で「何か」は右脳的・直情的で。私は多分「完全論理脳」でもなければ「完全な感性脳」でもなくて。
というか、この2つって別に相反しねーだろ、と。よく「あなたは左脳人間?右脳人間?」って言うハナシあるけどさ。いやいや右脳も左脳も持ってるわ、って。得意不得意はあるかもしれねーけど、論理的思考だって感性だって、天性の能力じゃなくって、努力次第で身につけられる「スキル」だと思うのな。「○○人間だから」って理由は逃げでしかないよ。
で。
私は論理的な部分を表現したい、って欲もあれば感性的な部分を表現したいって欲もあるのね。でもその2つを表現する手法って、同じ「文字」だとしても、全然違う性質のモノになる。それは、「イオリンの何か」を見てもらえれば分かるけれども。この「手記」に来てる人は詩なんか期待してないからね。
だから、「詩という手法を使ってモノを伝えたい」と思っても、それをイオリン手記で書くのは下策で。だから、こーいう「ブログのエントリ」を書く媒体と、「詩のような何か」を書く媒体は絶対分けないといけない。だからこそ、「詩」という手法で表現できる媒体として詩のような何か」を作った。
でも、だからといって、「これからはずーっと詩という手法を使っていくんだ」という気もなくて。論理的思考を使って考えたことはやっぱり、「イオリン手記」で書いたほうが伝わるだろうし。私は普段から色々考えるから、多分そのうちまた「ぶわーー」っと書く内容が溢れてくるんだろうと思う。
だから、イオリン手記がなくなることはなくって。ただ、今は「イオリンの何か」のほうが熱量が高いよ、と。そーいうハナシです。
〜〜〜〜
まーこっちを放置するのもなんか勿体ないし申し訳ないので、こっちもしっかり書かないとな、と思いながら今日筆をとった次第です。でも、今は感性の方がビンビンなんだよなぁ。
まぁ今日はそんな感じで。
ばいびー☆
関連: イオリンの何か