やりがいや感動は仕事の対価には値しない、ってハナシ。

まいど、いおりんでござい。最近は仕事の関係上、週の半分以上は東京で生きています。連日東京にいると、どんどんげんなりしてくる自分がいるのがわかりますね!

さて。私の大好きな作曲家、光田さん 1が、とても良い記事を書いておりました。

参考: 対価と価値 | Mitsuya’s Diary

素晴らしい記事なので是非御一読を。

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ビジネスの世界において「何かをしてもらうには対価が必要」ということは、当たり前のように思えるよね。というか、「何かをしてあげることで対価を得るのがビジネス」なんだからね。

ところがぎっちょん。

実は「何かをしても対価をもらえない仕事(のような何か)」というのは世の中に大量に存在している。

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どうも日本人は、「対価が発生すること」とか「お金を稼ぐこと」を有耶無耶にする傾向が強いように思う。

以前、「嫌儲」という言葉を取り扱ったけれど、どうも日本では「お金儲けは卑しいこと」のように取り扱われることが多いんじゃないかな。お金儲けは慎んでやらなければいけない、だとか、お金よりも大事なことが人生には山ほどあるので、お金儲けに腐心し過ぎるとだめだとか。

関連: お金儲けは、人間社会における問題解決の手法なんだ、ってハナシ。 | イオリン手記

だから、例えお仕事でもお金のハナシは簡単にしてはいけないような風潮がある。「お見積もり」っていう儀式の最中でないとお金のハナシができないような空気が流れる。「お見積もり」が終了して仕事が始まっちゃうと、多少変更事項が発生してもお金の話ができなくなる。

儀式の場以外でお金の話をするのは「悪」なのだ。

そーいう悪〜いハナシをするのに気が引けちゃうので、結局「お見積もり」後に追加のお仕事をしたとしても、その対価について交渉できないことが多い。仕事する側もされる側も「ま、いーか」で済ましちゃう。

こーいう、「対価をもらえない仕事(のような何か)」というのはビジネスの場で当たり前のように発生しまくっている。

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また、対価の発生を、お金以外の何かで有耶無耶にすることも多い。やりがいだとか感動だとか経験だとか。「好きでやっているから」だとか。そーいう無形の何かによって対価が支払われたような気になる人が多い。

けれども、私はそれらの無形の何かは、「対価」には成り得ないと考えている。なぜなら、やりがいや感動で人は生きていけないからだ。やりがいで空腹は満たされないし感動で服は買えないからだ。

対価というものは基本的に、市場において普遍的な価値を持つモノでなくてはいけない。これは市場におけるルールだからね。市場において価値を提供するならば、市場において価値を持つものが対価として支払われるのがルールだ。

やりがいや感動というのは、人によって大きく価値が代わるシロモノだ。特定の市場において大きな価値を持つけれど、特定の市場においては無価値に等しいモノになる。そーいった類のモノは、対価としての価値はない。

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例えば「お金はないけれど、衣服をあげるよ!」とか「将来ゲストハウスを運営したときに、タダで泊めてあげるよ!」とか、モノだったらまだ対価になる。多くの人にとってそれは価値があるからだ。

でも、「お金はないけれど、リンカーン大統領が使ったトランプをあげるよ!」とか言われると怒るでしょ?いらねーよ、そんなもん!ってなるでしょ。中には「リンカーン!?やべーやった!」って思う人もいるかもしれないけど、普遍的な価値ではないわけだ。

君が「やりがいがあればお金なんてなくても幸せだ」と思っていても、みんながそう思っているわけじゃない。だから、対価としての価値は低いんだ。

その点、お金は対価としての価値は最高だ。資本主義においてお金はほぼすべての市場で普遍的な価値を持つからだ。資本主義ならば、お金を使って、ほぼすべての価値と交換することができる。だからお金は対価になりうるんだ。

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なんか、「楽しければお金なんていいでしょ!」っていう人もいるけれど、プロとして生きるならば、お金を頂くという覚悟をしっかり持って生きなきゃいけないんじゃないかな。

ばいびー☆

職人技にホレボレするイオリン。

 

Notes:

  1. 光田泰典さん。ゲーム「クロノトリガー」等のBGM作曲で有名でございます。